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第21話 束の間の平和

「リリズ…機嫌を直してください、カナリアとは本当に何もありません」


「どうだかな」


練習後から今までずっとこんな感じだ。リリズは僕がカナリアの名前を出すだけで、不機嫌を隠さない。

ままならない感情をどうすべきか知らない子どものように見えるけど、こうやってむくれる姿はかわいいとも思ってしまう。


「リリズ…」


「本当のところはどうなんだ?」


「信じてください、僕にはあなただけです」


そう言うと、リリズは不機嫌ながらも肩を落とし、息を吐いた。


「…わかってる、すまない。思い通りにならなくて気が立っているかもしれない」


リリズが何ごとにも敏感で、強く気持ちが揺さぶられることは知っている。

いつ何時も本気なリリズだから成功もできるし、人一倍傷付くことも多いのではないかと思った。


「いいんです。あなたが嫉妬してくれるから不謹慎ですが僕の機嫌は悪くないです。何かあなたの気分もよくするお手伝いができればいいのですが…」


僕がいたずらっぽく笑って見せれば、リリズは言葉を詰まらせたようだった。


「…お前は本当に──」


「何です?」


「──それで? 俺に何をしてくれるんだ?」


リリズは不敵に笑う。


「俺の気分をよくしてくれるんだろ?」


そんな言葉と共に、リリズから柔らかい熱が僕の中にも感じられた。



※ ※ ※


夜。

草の香りが混じる湯気の中、リリズは半身を沈めながら、湯船の縁に腰掛けた僕に背を預けている。

静かな湯の音に、昼間の張り詰めた空気がゆっくりと溶けていった。


「お前は筋がいい、きっといい選手になれる」


湯気で視界が遮られた空間にリリズの声がこだまして、僕は動きを止めた。


手に持った布を握りしめる。


「僕が、選手に?」


まさか、と苦笑しながら首を振ると、リリズは少し肩を揺らして笑ったけど、その声に茶化した感じはない。


銭湯の奥、普段は開放していない洞窟風呂。

岩をくり抜いて作られた無骨な湯船に、時折、雫が落ちる音がこだまする。

オーウェンは湯を吸った布でリリズの肩口をなぞる。襲われたときの傷はだいぶ目立たなくなってきていた。


「リリズ、気持ちいいですか?」


「ああ、まさかこんな場所があったなんてな…」


湯気が立ちこめ、岩の隙間から光が漏れて、淡く空間を照らしている。

リリズはまるで別世界にでも来たように、穏やかに息をついていた。


「ここは少し他とは泉質が違うんです。肩こりとか膝の痛みにも効くみたいですよ」


「俺は年寄りかよ」


リリズの軽口に、僕は思わず笑ってしまう。


──そんな時間の中で、ふとリリズが問う。


「……お前の母さん、元気だったか?」

 

「ええ、元気でしたよ」


「そうか」


先日、僕が母を見舞いに行ったのを気にかけてくれていたようだ。


「元気そうでしたけど……少しだけ、寂しそうでした」


「早くよくなって、一緒に暮らせるといいな」


「ええ、そうですね」


リリズの言葉に嘘はない。

僕は素直にリリズの気遣いに感謝した。


「聞いてもいいか」


「どうかしましたか?」


「お前の母上はなぜ施設に行ったんだ」


僕は息を詰める。リリズに言うべきか一瞬迷ってしまったからだ。


「──それは、いろいろあるけど、僕が母から離されたことが大きいと思います」


リリズは何かを言いかけて、やめたようだった。僕は一息ついたのち、口を開く。

 

「新しい父が決めたことです。母を自分から逃げないようにするための人質だったのでしょう。それで母は心を壊した」


もう過ぎたことだと思っていた記憶は、声に出した瞬間、沈んでいた痛みを呼び起こす。


リリズは少し考えたような間を置いてから、ゆっくりと湯の中で身を起こすように僕の方を振り返った。


「…すまない、つらいことを思い出させたな」


「いいんです。今は、もう大丈夫ですから」


本当に、もうなんともないと思っていたのに。

リリズの傷ついた反応が、これが辛い経験だと僕に教えているようだった。


「お前の感情の色がないのは、もしかして母親と離れたせいなのか?」


リリズの問いかけに一瞬、何と答えたらいいかわからず沈黙する。


───ぽちゃん、と雫が一つ落ちる音が洞窟にこだまして、オーウェンは口を開く。


「……そのせいかはわかりません。でもたぶん、僕に心がないからだと思います」


「どういうことだ?」


僕にも正直、リリズの力のことはわからない。

でもリリズが僕に色がないと言うならそれが答えなのだろう。


「僕はきっと物事に鈍感なんです。でも、あなただけが感情を教えてくれる」


「…俺だけ?」


「そう、あなただけ」


「そう…なのか…?」


頷けば、リリズは少し肩を落として複雑な表情をする。


「僕は世の中を恨む感情だけで生きてきました。他に何を言われても何も感じなかった。──だけど競技のなかのあなたの感情が僕に入ってくる瞬間だけは、あなたを通して世界を知ることができたんです。“自由なことが嬉しい“って、そんな感覚でした。間違っていたらすみません」


湯の表面に光がゆらゆらと揺れる。波が静まるにつれ、光の揺れも次第に落ち着いていく。

やがて小さくリリズの声がする。


「……間違いじゃない…」


リリズと過ごす時間は、過去の痛みにも、今も続く晴れない気持ちにも、少しずつ向き合える気がしていた。

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