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第1話 プロローグ

【青年の日常】



市壁外の街サルヴェリ、昼下がりの闘技場。


観客の熱気はピークに達していた。多くの人が彼を見ている。

しなやかに鍛え上げられた体を包む黒いユニフォーム。その胸元に刻まれたスポンサーのロゴすら、彼の存在を際立たせる装飾のようだった。


地を蹴ると同時に、手に持った剣は矢のように一直線に突き出される。鋭い一撃は相手の肩を撃ち抜き、次の瞬間には床へ叩き伏せていた。鳴り響くブザー、割れるような歓声。その中心で輝く彼、リリズにひときわ特別な眼差しを注ぐ青年がいた。


「リリズ…」


青年は身震いする。

全身の血が素早く身体を巡り、呼吸がままならない。興奮と快感に支配されているはずなのに、解放的な何かが見える景色を変えていくようだ。


リリズ…あなたが見ている世界はすばらしい。


何故そんなに嬉しくて自由なの?


あなたの感情だけがクリアに僕に入ってくるのは何故ですか?


──あなたのそばに行きたい、もっと近づきたい…!!


サインを求める手がぶつかっても、興奮した観客の身体に押し出しされても、青年はリリズから与えられる情緒の波に目を瞑り、ただ感覚を研ぎ澄ましているのだった。






【競技選手の休息】



──とても疲れた…


過酷な練習や試合の後は必ず身体をゆっくりと湯に浸けて労うと決めている。ただし、試合の後は無傷で勝ったときに限るのだが。

だから試合帰りに街外れのこの“銭湯“に来るのは俺にとって勝利の褒美といった意味合いもある。


木製の色あせた扉を開けて中に入れば、壁の漆喰には所々ひびが入っている。年季の入った建物であることを感じさせるが、石畳や木の柱は丁寧に磨かれ、薄いガラス窓からの光を受けてほのかに輝いている。

入り口からすでに感じる爽やかな木の香りと熱湯の暖かさ。まるで異国の湯殿を思わせる趣があり、古びた外観からは想像できないほど館内は清潔で落ち着いていた。


ここは、リリズにとって日常の喧騒を忘れ心を休めることのできる場所のひとつでもあった。


湯を堪能した後に、休憩のために配された長椅子に身を預ける。

ここに来るまでは俺に古いものを好む感性があるなんて思いもしなかった。素朴で退屈に過ごす時間が俺にとっては何より非日常でもあった。


気がつくと微睡んでいて、俺は心地よい風に身を任せていた。



「…あの……お兄さん…?」


「……?」


浮上した意識の先にいたのは、僅かに身を屈めて俺を見ている青年だった。今日の叙情的な感性の全てがこの瞬間のために用意されていたかと思うくらいだ。そのくらい清廉な空気を纏った青年だと思った。青年はやわらかい雰囲気で話しかけてくる。


「あなたのような人がこんなに無防備に寝ていたら危ないですよ」


「危ないって?」


青年の言葉に俺は聞き返す。金目のものは持っていないが、こんな田舎の銭湯に何の危険があるというのか。


「えっと…もしかしたら触られてしまうかも」


「ああ…」


愛嬌のある笑顔と俺に近しい人のように気軽に近づいてきて話す様子に、言わんとすることを推察する。


「お前が触りたいという意味か?」


言うと青年は吹き出すように笑った。


「なぜ!?」


「お前が安全だという保証はないだろ」


そんなことを言うということは、自分自身も想像したからではないかと俺は思った。自分で言ってしまう程度には俺は他人を惹きつける魅力がある。女避けにと、男が好きなことを公言したばかりに今度は求婚する輩が後を立たなくなっていたせいもある。


しかし青年はありえないと言った様子で笑いながら首を振る仕草をする。


「なるほど、あなたは勘が鋭いですね。でも僕はここの従業員です、あなたの許可なく触れたりしません」


「従業員?…へぇ…すまない、そうは見えなかったから」


素直に非礼を詫びれば、青年は「とんでもない」と恐縮したようだった。


「別に気にしません。本来ならゆっくり寛いでいただいて構いません。…でもあなたがあまりに綺麗だから、心配になって声をかけてしまいました」


「…」


俺は言葉に窮した。従業員だという青年の美貌が、この寂れた空間には不釣り合いに思えたからだ。だが古くても大切に扱われてきたであろうこの場所を見ていたら、この青年が客である俺に気を配ることも自然と腑に落ちる気がした。


「それじゃ、ごゆっくり」


青年は小さく頭を下げると踵を返した。

俺は普段とはまた一味違う非日常に、静かな興奮と幸福感を感じていた。


こんなところで、まさかあんな綺麗な青年に声をかけられるなんて。


──!? 綺麗……?

さっき、俺のことを綺麗って言ってたか……!?


今更ながらに羞恥と期待が入り混じる感情が押し寄せてくる。

少し熱を冷そうと休憩をしていたのに…


何かが始まって欲しい。そんな邪な感情がなかったと言ったら嘘になる。

だがこの青年に出会ってしまったことで、俺は逃げられない運命あることを思い知らされることになる。

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