三文作家と過去の記憶①
それは、ある日の昼前のことだった。
階下がにわかに騒がしくなって、大家のシェルマン夫人が来客と何やらやりとりしている声が聞こえた。
「もう来たの? 早いわね、リック……」
近頃のリックは、アリーが朝に弱いことを理解して、昼下がりにやってくるようになった。アリーが締切を間近に控えていて『朝から急かして書かせなければならない』という場合なら別だろうが、幸いなことに、直近の脚本の収入もあって、今のアリーはそれほど仕事に追われているわけでもない。
予定のない日くらい遅くまで寝かせてくれたっていいのにと、少しの不満を覚えつつ、アリーは客人を待ち構えた。
足音が自室の前で立ち止まり、重いノックが、三回、硬い扉を揺らした。
「はーい。どうしたの、今更ノックなんて要らないわ、いつもしないじゃない」
急にかしこまるなんて何か後ろめたいことでもあるのかと笑って出迎えようとして――その笑顔は、瞬時に凍りついた。
「……あなた、誰?」
仕立てのいい上着に、艶やかな黒髪。
まるで、この部屋を初めて訪れたときのリックのような恰好をした『来客』は、室内に一歩踏み入ると、眉間にぐっとしわを寄せた。
いかにも『汚らわしく不愉快なものを見た』と言わんばかりの、リックなら絶対にしない表情を浮かべている。
「名乗るような名は持ち合わせていない」
「……それは、『名前を覚えてもらうなんて恐縮です』という意味なのか、『お前のような下賤な庶民には礼儀を尽くさない』という意味か、どちらなのかしら」
一目見れば、この男もまた『いいところのお坊ちゃん』――高位貴族であることは分かる。
そして、彼がアリーのことを良く思っていないことも。
良く思わない人間のもとを、わざわざ何のために訪ねてきたのか。その理由を想像すれば、嫌な答えしか浮かばない。いざという時に備えて、逃げ出す時間を稼ぐために、アリーは軽口を重ねた。
ふてぶてしいその態度が気に障ったのか、いっそう不機嫌そうな顔をした男は、つっけんどんな口調で言う。
「聞かねば分からないのか」
「あら、確認のためですわ」
「結論から言う。あの方から離れてくれ」
「あの方……というと? リックから?」
『心当たりがない』としらばっくれても意味はない。
この男はきっと、リックの家の――シェリンガム公爵家のゆかりの者なのだろう。そう思って見てみれば、彼の髪や瞳はリックと近い色をしているし、顔立ちもどことなく似通っている。シェリンガム公爵家の分家だとか、血の繋がりのある親戚なのかもしれない。
彼らの立場からすれば、本家の大事な嫡男が下賤な庶民なんかと親しむのはよろしくない、と思うのも無理からぬところで、この男はリックの交友関係に釘を刺すためにやってきたのだろう。
「言っておきますけれど、彼の方から、私に近づいてきたんですよ? 近づけたくないなら、彼に言うのが筋でしょう」
だが、リックは立派な成人男子である。
彼の行動の責任は彼自身が持つべきで、他人が尻拭いをするのもおかしな話だし、反対に言えば、リックが問題を起こしでもしない限り、他人が彼の行動を管理して制限する必要もなければ、権利もない。
本人に向かって『庶民とは付き合わないでください』と説得すればいいのに、とアリーが言うと、男は細い眉を跳ね上げた。
「理屈で言えばそうだろうな。だが、お前なら、あの方を遠ざける方を選ぶかと思っていたが」
「……どういう意味ですか」
冷たい悪意の込められた断定的な言い方に、つい、気持ちが怯む。
もしかして、この男はあのことを知っているのか? いや、それを言われたとしても、もうとっくに言われなれた言葉だ、傷つくような心もなど無くして久しい。
「お前と関わった人間の評判が悪くなることくらい、愚かでないなら、分かるだろう。今のゴシップ作家という身の上も論外だが、何よりも『王太子を破滅させた毒婦』ならば」
――ああ、やっぱり。言いたかったのは、そのことなのね。
特段の衝撃もなく、アリーは投げつけられた悪名を受け入れた。




