星の調律者
私の手元にある銀色のテナーサックスは艶やかにひかり、ほんの小さな光なのに、部屋全体を照らした。
ひんやりと、冷たさがテナーサックスを伝わってくる。
「……」
私は天井を見上げた。
普通であれば肩にたらりと垂れる星屑色の髪も、ふわふわと水に浮いている。
白色の瞳はシャンデリアの光を色とりどりに反射した。
水に満たされた異世界。
私の家族や友達は、どうしているのだろう。
もしかして、もう向こうに私はいないんだろうか。
私の指先が水の影をなぞっていく。
私の思いなど知らぬまま、影は涼しげに揺れていた。
「聖女様」
私はくるりと振り返った。
顔にそばかすのある女性━━━━━━ソフィだ。
「聖女様に伝えておかなければならないことがございます」
ソフィの目からは輝きが消えていた。
***
━━━━━部屋に来てもらえるか
カイト・ピレシャノールにいわれ、神殿の中を歩いていた。
カイトの後ろについていく。
「ここだ」
軋みそうなほど大きなドアだったが、立て付けがいいのか音はしなかった。
部屋の少し奥に行くとカイトは話し始めた。
「父上に、『オークションに婚約者を探しに行け、経験にもなるだろうから』と言われてあそこにいたんだ」
「はっ?!」
私の顔がみるみる青ざめていく。
買ってくれたのも、グルテンから助けてくれたのもありがたかった。
けど。
それじゃあ、彼は……?
カイトは整った顔を歪ませた。
「そう言うわけじゃなくて、そういう意味ではお前を買ってないんだ」
カイトの言いたいことはわかった。
「お前の音が良かったからだ。大事にしているだろう?」
楽器を、とカイトが小さくつぶやく。
少し顔に血の気が戻り、心臓がどくどくと波打ち始める。
私の、音…。
私は白い目に涙を溜めていた。
ちゃんと私の音を、私の音として見てくれた人が、この世界でいただろうか。
私を、1人の奏者として見てくれた人がいただろうか。
「でも、カイト様は婚約者を見つけなければ行けないのではないですか?」
私は涙がこぼれないように食い止めながら言った。
「……お前が嫌なら破棄するが……嫌じゃないならそういうことで」
カイトが絞り出すように言った。
彼の瞳の青色はいつもよりもいっそう深くなっていた。
「え?え?」
私が動揺している間にも、彼が歩き出す。
思いの外早歩きで彼は私の横を通り過ぎ、部屋を出ていった。
彼が私の横を過ぎる瞬間がスローモーションのように見えた。
私はぽつんと、カイトの部屋に残された。
私は訳がわからずその場にへたれこむ。
婚約を結ばれた麗しい聖女。
どうして私なんか──────。
カイトの湖の輝きをもつ底なし沼の目。
無慈悲で冷酷━━━━━━。
なぜカイトがそんな仮面をかぶっているのかわからなかった。
***
「カイト様は、過去に“音の暴走”にあったことがございます」
ソフィが、まるで重たい扉を開けるように、ぽつりと告げた。
「音の……暴走……?」
私は聞き返すのが精いっぱいだった。
「ええ。楽器で魔法を奏でているときに、意識や感情が過剰に流れ込むと……制御できなくなることがあるのです。魔法が暴走し、音が人を襲う。」
「……っ……」
喉がつまる。
「カイト様は、あの時────」
言いかけて、ソフィは言葉を飲み込んだ。
けれど、感情は言葉より先にあふれた。
「……だから私は……っ。あなた様が楽器を吹いて、またカイト様に危害が及ぶのは、どうしても避けたいと思っていたのです!」
ソフィの声が、怒りとも哀しみともつかない震えに変わる。
「なのに……なのに……カイト様は、あなたと“婚約”だなんて……! どうして!? どうして、あの人は……っ!」
怒りと悲しみが混ざった涙が、ソフィの瞳からこぼれ落ちる。
「音の暴走のせいで……カイト様は……あんなにも優しかったあの子が……!」
私は何も言えず、ただ、自分の手にある銀色の楽器を見つめた。
つつやかに光るその楽器が、いまは刃物のように見えた。
「相手がいない限り、カイト様はあなたと婚約するほかありません。しかし、カイト様に何かあったら承知いたしません」
宣戦布告。
ソフィの目からは決意の色があった。
……。
私はなぜか、怒りで胸がいっぱいだった。
どうして、なんて私にはわからない。
私だって、婚約なんてもってのほかだ。
だけど。
彼は私を私としてみてくれたのだ。
彼を、手放したくない。
彼を、守りたい。
「えぇ、もちろん」
そばかすの女性と麗しい聖女との間で約束が交わされた。
***
音の暴走。
音に八つ裂きにされ、周りの音全てがノイズに変わる。
おさまった後、音が怖くて怖くて怖くて仕方ないはずなのに、音楽のことしか考えられなくなるのだという。
音を見つめるその人の目は、輝きを失っていた。