聖女オークションへようこそ
がこん。
揺れる馬車が止まり、私の身体が軽く浮いた。
目はまだぼやけている。甘ったるい匂いが鼻をつき、頭が鈍く痛い。
何かに包まれたままの体が、ごとり、ごとりと乱雑に地面に降ろされる。
──まるで、荷物みたいに。
「こっちだ。次の目玉商品、ちゃんと扱えよ」
「星屑色の髪、白い目……ああ、間違いないな」
低い声が交わされるたび、私は強く目を閉じた。見たくない。何も知りたくない。
けれど、現実は私のまぶたごと引き剥がしてくる。
バサッ。
布が外され、光が一気に差し込んだ。眩しさと、ざわめきが一気に押し寄せる。
「おい見ろよ、本物の“聖女”だぜ」
「この星の加護を受けた髪…奇跡じゃないか?」
「いやいや、きっと高く売れるぞ、こりゃあ!」
私の肌、髪、瞳、呼吸さえも、値段がつけられるための“要素”になっていた。
──お願い、やめて。見ないで。
声にならない叫びは空に溶け、返事はなかった。
私は今、「聖女」としてではなく、「商品」として舞台裏に運ばれた。
オークションの始まりを知らせる鐘の音が、高らかに鳴り響く。
ここ、しってる。
私が初めてコンクールに乗った時の、コンクール会場だ。
そのままそっくりというわけではないけど、私はここを知っていた。
屋根はなく、吹き抜けになっているが、それ以外は私が全て知っているものだった。
机も、照明も、床に貼ってあるテープも。全て知っていた。
────よりによってここで?
私の人生の分岐点は、ここになってしまうのだろうか。
賞を受賞するのなら嬉しい。
けど。
けど。
私は売り飛ばされるためにここにいる。
人身売買という言葉が頭を這いずり回って離れなかった。
「聖女、マチルダ。こっちに来い」
私は大きな男に呼ばれて、仕方なくついっていった。
階段を降りていくと、部屋がずらりと並んでいた。
─────あぁ、やっぱり知っている。
楽屋だ。
懐かしい光景が、私を少し慰めた。
あの音。
私が大好きな自由曲の旋律。
先輩の輝く楽器───────。
儚い、夏の余韻を思い出した。
聖女、マチルダ・ロッティア。
私───守谷友は、吹奏楽部・テナーサックスパートとして日々を送っていたものの、ある日突然、聖女吹奏楽団に所属しているテナーサックス奏者・マチルダ・ロッティアとして転生してしまったのだった。
吹奏楽団には掟があり、6年経ったら名家と婚約するという掟だった。
私は振られて、パン屋で働いていたところを誘拐されてしまったのだった。
もう、よくわからない。
商品でありながらも、私は道ゆく人を魅了した。
私はまだ、成人もしていないというのに。
半狂乱になっていないのが不思議だ。
聖女の精神力といったものなのか…。
マチルダ・ロッティアという聖女に、私は毒されてきている気がした。
守谷友が居なくなってしまうような────────。
埃の匂いと、楽器の金属がほのかに光を反射している。
机の上には昔使った譜面が乱雑に置かれていた。
「ここ……」
心の中でつぶやく。守谷友の記憶と、マチルダ・ロッティアとしての記憶が交差する。
「私は、どこにいるんだろう…」
小さな震えが体を包み込む。
隅に置かれたテナーサックスケースを見る。
守谷友の私も、マチルダの私も、同じ楽器に命を預けていた。
守谷友も、マチルダ・ロッティアも、楽器が命のように大切だった。
でも今の私は、楽器を演奏して自由を感じていたあの頃とは違う。
「この楽屋は、希望の場所でもあったはずなのに……」
涙がぽろりと頬を伝い落ちる。
その時、背後から低い声がした。
「聖女、準備はいいか?」
振り返ると、いつもの大柄な男が待っていた。
「ああ……はい」
声が震える。
聖女吹奏楽団の掟
一. 聖女であることを意識すること
二.6年経ったら脱団し、名家に嫁ぐこと
三.二が達成されなかった場合、最後まで聖女として振る舞い、神に奉仕すること
四.聖女であることを隠した聖女は、どうなっても受け入れること
五.吹奏楽を愛すること
「四.聖女であることを隠した聖女は、どうなっても受け入れること」。
掟を破ってしまった結果が、これだとでもいうのだろうか…。
────聖女であることを意識すること
───────聖女であることを意識すること
──────────聖女であることを意識すること
知らず知らずのうちに、私はその言葉を繰り返していた。
星屑色のシルクのような髪をハーフアップにまとめ、鏡の前でぎこちなく微笑む。
「聖女であることを意識すること」
まるで何かに取り憑かれたように、私はもう一度静かに繰り返す。
“聖女であることを意識する。”
その言葉が、ゆっくりと頭の奥に沁み込んでいく。
けれど、その響きは自分の声ではなく、どこか遠くの誰かが囁いているように感じられた。
まるで私の意思とは別のものが、無理やりこの言葉を私に植え付けているみたいで。
心の中で静かな抵抗が芽生える。
「これは、私の声じゃない…」
麗しい、聖女の声?
でも、すぐにその声はかき消されてしまう。
代わりに繰り返されるのは、呪文のような言葉だけ。
「聖女であることを意識すること」
胸の奥で、小さな光がまだ消えずに揺れている。
本当の私、守谷友。
その存在が、静かに扉を叩き続けているのがわかる。
みんな、自分の“理想”を投影して、それを聖女に押し付けている。
「私は、私のままでいたい」
けれど、冷たい鎖のように絡みつく言葉たちが、まだ私の心を縛りつけて離さない。
──周囲のざわめきが遠くから聞こえた。
男たちの視線が私に向けられている。
髪はいつになく光沢を増し、白い瞳は柔らかな光を宿している。
その姿はまるで、壊れやすい硝子細工のようで。
内側で、誰かが私を操っている気配が、かすかに息づいていた。
聖女マチルダを完全に受け入れた姿。
みんなが望んでる。
─────ちがう、違うんだよ。
─────そうじゃないんだよ。
誰かの声が遠くに聞こえる。
─────音楽を愛して、自分らしく生きる。それがお前じゃないか。
─────完璧な聖女なんて、つまらないだろう?
美しい、完璧な聖女。
鏡の中に映る私は、完璧な聖女そのものだった。
どくどくと、心臓が波打つ。
後少しで壊れてしまいそうなくらいに。
私の周りでは水が渦を巻き、潮がキラキラと光っていた。
─────それともなんだ、つまらなくなりたいのか?
鏡の中の私の瞳の中に、「私」は居なかった。
ひとりの人物像が思い浮かぶ。
私と同じ白い目、星屑色の髪。
挑発的な声色、凛々しい顔つき。
もう何かを諦めてしまったような眼差し────。
モーリスだ。
─────諦めさえしなければ、誰かが認めてくれる。お前にはまだそれができる。
モーリスは寂しそうに微笑んだ。
彼は、どうして私を助けてくれるのだろう。
彼に、何があったのだろう。
これは現実なのか、夢なのか?
私の指先は自然と、銀色の楽器ケースへと向かっていた。
私の、音。
芯の通った元気な音で、だけど温かみのある音。
息を吹き込み、水を震わせる。
守谷友でもあり、マチルダ・ロッティアでもある音。
私とマチルダの、架け橋。
それは─────吹奏楽。
曖昧なままでいたい。
どっちかになんてなりたくない。
曖昧なままを皆は許さないかもしれない。
けれど、いつか許される日が来るなら─────────。
私はクラクラする頭の中で、新たな私を見出そうとしていた。
洗脳をかけていたのは、私自身だったのだ。
みんなの期待に押しつぶされそうになって───────。
誰かの望みで、変わる必要はない。
自分が変わりたいなら、変わればいい。
私のオークションの順番が、回ってこようとしていた。