不自然は風になって
踊る、楽器たち。
銀色、金色に輝く楽器たちは踊るように軽やかに音を奏でていく。
「Cのアフタクト」
先生が手を上に上げる。
すぅぅ、と息を吸う音が揃った。
タタタタタリラリラ…。
サックス、オーボエなどの高音、中音楽器が難しいステップを踏んでいく。
空気の統一。
そうとしか表現できないような空気感。
八分音符の連続で難しいけれど、1番好きなところだった。
「自分、無力すぎてやばいんだが」
合奏が終わると、私の親友の優楽が話しかけてきた。
マウスピースを洗いながら優楽の顔を見る。
彼女は金管楽器だから、マウスピースブラシでマウスピースを磨いている。
木管と金管はマウスピースの形も大きく違う。
金管はマウスピースだけで音階を吹けるから、少し羨ましい。
「当たり前…って言ったらアレだけど、私たちまだ一年生だし」
私が苦笑いをする。
私も正直、全然吹けなかった。
優楽はホルンパートの一年生で、私と同じクラスである。
優楽はポニーテールを揺らした。
私の茶色い髪の毛も揺れる。
「まぁさぁ…でも、それだけで終わりたくないんだよね」
優楽の茶色い瞳には、小さい闘志がきらりと光っている。
「がんばろ」
「うん、がんばろ」
私と優楽は微笑み合う。
窓から光が差し込み、私たちのマウスピースを照らした。
「ゆうらっちょ、今日楽器持って帰る?」
私が問うと、
「うん!」
優楽が元気に返事をした。
優楽はいつも声のトーンが高く、周りにも明るい印象を与える。
優楽とは小学校が一緒だったのだけど、同じクラスに一度もならなかった。
もうちょっと早くに会いたかったな、と思う。
だけど、思うことがある。
でも今より前に会って、今のように仲良くなれるだろうか?
今、吹奏楽部で出会ったのが運命なのかもしれない。
「とーぜん、涼も持って帰るでしょ?」
その場に居合わせた涼に優楽が突然話しかけた。
優楽がふふん、と息を鼻から出しながら言った。
私は一瞬、ドキッとする。
涼も猫のような目を細め、驚いていた。
「えぇ…まぁ、そーするわ」
涼はそういうと、下の階に降りてった。
たったった…。
一段飛ばしで階段を降りていく音がきこえた。
「あいつ、何しにきたんだろ」
マウスピースをハンカチで拭きながら、優楽がつぶやく。
涼はフルートパートで洗うものもあまりないから、水道に用はないはずなんだけどな。
まぁ、いいか。
私は彼が去っていく背中をなんとなく見つめていた。
***
私はベットから起きた。
なんだ、夢。
あの夢は、一年生の頃の思い出だ。
優楽、元気にしてるかな。
途端に優楽に会いたくなる。
私は眠い目を擦って、目を覚ました。
目が白色に戻っていることに気がつき、目の色を変える。
光が水と混ざっていく様子を見ながら、私は星屑色の髪の毛をとき始めた。
私の名前は守谷友。
吹奏楽部のテナーサックスパートで、音楽に充実した毎日を送っていた。
ある日、突然、水に満たされた異世界に聖女として転生し、聖女吹奏楽団所属・テナーサックスパートのマチルダ・ロッティアとなったのだった。
その吹奏楽団はパートごとに婚約をするという掟があり、私もその候補だった。
婚約の儀式を相手に拒絶され、家を追い出され━━。
カルメと言う女性が経営するパン屋で身分を隠して働いている。
夢を見たのなんて久しぶりだ。
ロッティア家の証の白い目と、他にない特別な色の星屑色の髪の毛は隠さなければならない。
髪の毛をスカーフで隠し、カルメの友人のマリーが経営している宿を出た。
右手には銀色のケースに入ったテナーサックス。
この世界の、銀色で優美な曲線を描くテナーサックスは、私の相棒となっていた。
ケースには名前が彫ってあった。
私はティルと名前を偽って暮らしているため、そこはパッチで隠した。
すぅ、と息を吸う。
水で周りは満たされているので空気を吸うのを躊躇いがちになるが、前の世界と変わらない。
むしろ、こっちの方が空気が美味しい。
潮の風が私の間をすり抜け、たんぽぽたちをさわさわと揺らした。
「タタタタタリラリラ…」
私は夢で見たあのリズムを口ずさみ始める。
少し先には、カルメがやっているパン屋さん、
〈マ・レ・ヤマリン〉がある。
こじんまりとしたパン屋には、洗濯物が干されていて、ふわふわと潮風に靡いて地面に青い影を落とした。
潮風にのって、パンの香りがする。
カランカラン。
ドアを開けると銀色のベルが音を鳴らした。
「ティルちゃん、おはよう。今日もよろしくね」
「はい!」
私は元気に返信をする。
パン屋でのアルバイトが私にとっての生き甲斐になっていた。
私はカルメの異変に気づいた。
ちょっと、元気ない?
「何かありましたか?」
「あぁ、それがね…」
カルメが表情を曇らせて話し始める。
「最近、闇オークションっていうのがあるの。その被害がこの町にも及んでて。大丈夫かしらねぇ…」
無所属の聖女は━━━━━。
父が言っていたことを思い出し、寒気がした。
背筋が凍るようだった。
「…」
大丈夫。私だって、戦えるんだから。
「きっと、大丈夫ですよ」
私は笑った。
スカーフがパンの匂いに揺れる。
店内を見まわし、窓の外を見て笑顔を作った。
ただただ、忘れたかっただけだった。
私はその夜、楽器を持って港へ向かった。
楽器を組み立て、吹き始める。
私の大好きな、コンクールの自由曲だ。
タタタ ターターターリーターリララー…
星々は青い空に煌めき、それぞれが触れれば崩れてしまいそうなくらいに繊細に光っている。
私の麗しさは、その星々たちにも混ざらない。
空を見上げていると、三つ並んだ星を見つけた。
あ、オリオン座。
学校で習ったのを思い出し、不意に懐かしくなった。
涙が滲んでくるけれど、堪えようとした。
ポロリ。
堪えきれず涙が溢れ出す。
その涙は真珠となり、コンクリートに落ちた。
やっぱ、恋しかったんだな。
元の世界の、人たちが。
ふと、後ろを振り返る。
何もいない。
なにか、視線を感じた。
なんなんだろう、この静かさは。
いつも静かだけれど、虫の音くらいは聞こえる。
星々が瞬く音だって。
なのに、今日は何も聞こえなかった。
なにか言葉にならない恐怖が込み上げ、私は叫びそうになる。
…。
息を吐き出して、呼吸を落ち着かせた。
楽器をいつもよりも早く片づけ、銀色のケースをもつ。
銀色がキラリと光を反射した。
涙を拭き、私は宿への道を歩き始めた。
真珠がもう一粒、道端に転がった。
次の日。
「ティルちゃんって夜更かしする?」
このパン屋の常連の金色の髪の少女、マルルがクリームパンをほおばりながら言った。
「最近、したかもですね」
「知ってる?〈星の声〉」
マルルは机に肘をついた。
彼女のふわふわとした髪の毛は、またとない魅力があった。
「星の声?」
私は首を傾げる。
お団子にしてスカーフで隠しているため、前のように星屑色の髪はふわぁりとゆれなかった。
「うん。最近、夜になると港で星のように美しい音が聞こえてくるんだよ」
どきり、とした。
動揺がバレないように目を伏せる。
私と決まったわけじゃない。
「だれかによると、楽器の音なんだってー」
ずぞぞ、とマルルがアイスティーをすする。
もしかして、昨日の…?
その日以外にも私は演奏をしていた。
噂になっていたとしたら。
「そうなんですね…」
私は苦笑いを浮かべ、厨房に戻った。
厨房に戻ると、カルメにほかほかとした紙袋を渡された。
「配達を頼めるかい?」
「はい」
ドアを開けて外に出る。
カランカランとベルが揺れ、私にいってらっしゃい、と言っているようだった。
曇ってるなぁ…。
どんよりとした空を見上げる。
私は目的の家まで歩きはじめた。
町には、人、人、人。
私の目も髪も隠れているのに、私が通った後には視線が残った。
髪は隠せても、麗しい首筋、体つき━━━━。
全てを隠すことはできない。
早歩きで目的地へ行こうとすると、
「すみません」
軍服のようなものを着込んだ男性が話しかけてきた。
「最近この辺りで、闇オークション関係者と思われる不審者を見ませんでしたか?」
また、この話だ。
私を八つ裂きにするような衝動が私を駆け抜けた。
腕が震える。
「ごめんなさい。私は街から離れたところに住んでいるので」
私は首を振った。
皆の目が釘付けになるのがわかった。
体のうちから出る、異質のオーラ。
いつまでも私を逃してくれない。
「そうでしたか。裏道は人通りが少ないので気をつけて」
軍服の男性は私に向かって敬礼し、向こうへと去っていった。
さっさと終わらせてしまおう。
紙袋を胸に抱き、私は曇った空の下を歩く。
潮風のにおいが、いつもより濃い。
──なんだろう。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
誰かに見られているような感覚が消えない。振り返る。
…誰もいない。
けれど、ひたりとまとわりつくような視線の気配は、確かにそこにあった。
スカーフの中の髪が、風に揺れるたびに、何かがほどけそうな気がして、私は歩く速度を早めた。
道端の人々の視線が、一瞬こちらに向く。
目は合っていないのに、「気づいている」と言われているような錯覚。
私は無意識に、紙袋をぎゅっと抱きしめた。
──足音。
ぴたりと、後ろから足音が重なる。
靴が石畳を踏む音。私と同じリズムで、一定の距離を保って。
怖い。なにかが、おかしい。
このまま角を曲がって、人通りのない路地に入れば…。
分かっているのに、足は止まらなかった。
配達先は、この先。どうして、こういう時に限って、裏道なの?
角を曲がった瞬間、空気が変わった。
湿っていて、重い。
さっきまで騒がしかった通りの喧騒が嘘みたいに遠のく。
ふと、気配がすぐ後ろに迫った。
「すみません」
声がした瞬間、私はビクリと肩を跳ねさせた。
振り返ると、顎に髭を生やした男が立っていた。
どこか無機質な笑みを浮かべている。
視線が、まっすぐ私の顔を捉えていた。
「あの……ベネタクトさん、ですか?」
「はい、そうです」
紙袋を差し出そうとしたその瞬間。
甘い、花のような匂いが鼻をついた。
…変だ。
視界が、ぐにゃりと揺れる。
世界が、波のように歪む。
頭が重くなり、足元がぐらついた。
壁に手をついても支えられず、そのまま崩れ落ちる。
──なにが起きてるの?
脳が混乱しながら、私は頭に手をやる。
スカーフが、ない。
お団子にしていた髪がほどけ、ふわりと星屑色の髪が揺れている。
「白い目、星屑色の髪。間違いない」
男がそうつぶやいた。
逃げなきゃ。
体に力を入れようとするが、まるで海の底に沈んだように、手足が動かない。
魔法を…魔法を使わなきゃ。
呼吸が浅くなりながらも、私は必死で楽器を召喚しようとする。
「タタリリラ…」
楽器が現れ、私は演奏を始めた。
水と音が交わり、魔法が舞う。竜が姿を現す。
竜が男に爪をかけた。
けれど、男は怯まない。
口元を歪めて笑うと、手に持っていたハンカチを──私の顔に押し当てた。
甘い香りが、今度は確実に私の意識を奪っていった。
いやだいやだいやだいやだいやだ───────────!
私は叫ぼうとするが、声はもう出なかった。
ふわん、と楽器がケースに戻る。
視界が真っ暗になる直前、私はただひとつ、銀色の楽器ケースを抱きしめた。
それだけは、手放したくなかった。
がこん、と音がして、私は馬車に積まれた。
私の心は恐怖に包まれ、何もかもを放棄していた。
暗闇の中で、世界が遠ざかっていく。
潮の風すら、もう感じなかった。