庭に咲く楽団員
静寂。
私は目を覚ますと、朝食を済ませた。
私────守谷友は異世界に転生して以来、マチルダ・ロッティアとして生活している。
星屑色の髪、白色の目、魅力的な首筋────。
私は、聖女に転生してしまったのだった。
どうにも私は名家の聖女らしく、召使いが5人ほどついている。
屋敷の中は輝かしく、どこもかしこも絨毯が敷かれており、どれも青色調だった。
転生した日、家に帰るなり召使いたちが押し寄せてきて、私にドレスを着せた。
銀色の魚の刺繍が入ったドレスは一歩進むだけで華やかに光り、花の装飾が施されたかんざしは涼しげに揺れた。
楽器を吹くため口紅など皆(楽団の人たちは)していなかったのだけど、あれよあれよと私はあっという間に、メイクアップまでされてしまった。
ロッティア家の血筋のものはみな白色の目をしていて、華やかだった。
部屋を出て廊下の壁の魚の彫刻をなぞりながら歩いていると、1人の男性にでくわした。
モーリス・ロッティア。
マチルダの、兄だ。
私と同じの星屑色の髪、白色の目…。私と違うとすれば、顔つきがキリッとしていて、男らしいところだろうか。
マチルダの二つ上の20歳で、若かりし後継だ。
「おはよう、マチルダ」
モーリスが片手を上げる。
白いジャケットに、腰に挿してある短刀を見ると、少し気が滅入る。
だけど、滅入っていたら、この人とは付き合えない。
「おはようございます、お兄様」
私はドレスの裾を上げて挨拶して、去ろうとした。
「ちょっと待たないか、マチルダ」
青い手袋をした手が私の腕を掴んだ。
私は慣れてなくて、赤面する。
私はただの、もと吹奏楽部員なのだ…。
いきなり男子に腕を掴まれて平常心ではいられない。
「なんだ、恥ずかしいか」
モーリスが私の顔を覗き込んだ。
挑発的な、白い目。
「あ、いや…」
深呼吸して息を整え、真顔になった。
こう見えて、ポーカーフェイスは得意だ。
「なんでしょうか」
私はモーリスに向き直った。
カツン、と靴が音をたて、廊下に響く。
潮風が私の頬を撫でた。
「もうすぐ、この屋敷を出ていくだろう?」
私は頷いた。
あと2週間もないくらいだ。
婚約なんてしたくないし、自分の結婚相手は自分で決めたい。
私には、前の世界で好きな人がいたのだから。
「どうだ?」
モーリスが尋ねてくる。
私は目を合わさないようにするので必死だ。
いや、どうだ、とは。
なにをいってるの?
私は首をかしげる。
モーリスは、ふっと笑った。
「……婚約の話さ」
潮の香りを含んだ風が、ふたりのあいだを吹き抜ける。
「嫌なんだろ?」
不意を突かれた。私は目を瞬かせた。
私は不安になり、星屑色の髪の毛に触れる。
「お前、昨日の晩餐のときも魚の身ばかり突いていて、全然話を聞いてなかっただろう」
ドキリとした。
たしかに私は、貴族たちの話し声をただの“BGM”のように聞き流していた。
気持ちはずっと、サックスの音に飢えていたのだ。
演奏したくて、音を鳴らしたくて。
私は身構える。
叱りにきたのかもしれない。
なってない。聖女の基本が───と。
「嫌なら、逃げてもいいんだぞ」
モーリスの声が、妙に静かだった。
「……え?」
「婚約なんて、ロッティア家の義務にすぎない。誰も、お前の気持ちを聞こうとはしない。だが俺は──少しくらいなら、聞いてもいいと思っている」
見れば、彼の目は真剣だった。さっきの挑発的な色はなかった。
彼は、ものすごく短い間、どれだけ私をみてくれたのだろう?
「お前が、もし今でも……“あっちの世界”に帰りたいと思ってるなら」
私は息を呑んだ。
モーリスの白い目が、私の心の奥を見透かしているようで──怖かった。
「……知ってるんですか? 私が……」
言葉にするのも、怖かった。
モーリスはふっと目を細めた。
「さぁ?」
モーリスはさっきの調子に戻っていた。
私は思わず、自分の髪を指先でつまんだ。
星屑色──この世界にしか存在しない、淡い銀と黄色と青の入り混じった、不思議な色。
「俺は、そういう話も嫌いじゃない」
そう言って、モーリスは腕を放した。
「行ってこい、マチルダ。今日も楽団の練習だろう? 音に生きるお前のほうが──よっぽど聖女らしい」
「お兄様……」
彼の背中が遠ざかる。私は、名残惜しさに指を伸ばし──やめた。
その背中に、何も伝えられなかったけれど。
ただ一つだけ、確信した。
私を、この世界で見てくれている人がいる。
ならば、もう少しだけここで生きてみても、いいのかもしれない。
朝の光は水面に溶け、ゆらゆらと揺れる。
マチルダ・ロッティア──いや、かつての私は、守谷友。
そんな自分の名前を口にするたび、胸の奥に違和感が湧き上がる。
この世界に転生してからというもの、まるで誰かに縛られているかのような気がしてならなかった。
星屑色の髪も、白色の瞳も、まるで仮面のように重くのしかかる。
周囲の人々は私を聖女として崇めるけれど、私の心はそれを拒んでいた。
召使いたちが着せてくれた銀色の刺繍のドレスは、まばゆい光を放ち、優雅に揺れる。
しかしその豪華さは、私の孤独を隠すための仮面のように感じた。
召使いたちは私の服を脱がせ、聖女の服を着せた。
誰もが私に期待し、求める音色を奏でることを強いる。
けれど、どこかで違うと感じている自分がいた。私は私でいたい。
ただの吹奏楽部員で、ただの守谷友で。
それがたとえ、マチルダでいることになろうとも。
そんな私を唯一救ってくれるのは、楽器の音だった。
銀色に輝くテナーサックスを手に取ると、まるで世界のざわめきが静まり、私だけの世界が広がる。
「音は嘘をつかない」───誰かが言った言葉を思い出す。
音楽だけが私の本当の声を代弁してくれる。
どんなに違和感や孤独に押しつぶされそうになっても、この音だけは私を裏切らない。
銀色の譜面台に譜面をたて、構えた。
周りの人たちと音を合わせる。
ぴたりと音が合うことは吹奏楽部でも少ないが、ぴたりと合うとみんなとの心が一つになった感触がする。
聖女には「奏書」という聖典があり、その通りに吹くと傷を癒したり喜ばせたり、動きを封じたり、闘ったりすることができる。
でも私は決して、その通りには吹きたくなかった。
作者の意図や、記号の意味。
全てを読み取ってこそ、最高の物語ができると信じていた。
滑らかな金属光沢をもったテナーサックスは、私の手にすっかりと馴染んでいた。
それが喜ばしくもあり、恐ろしくもあった。
「『聖女の祈り』最初から」
指揮者、マイデント・スチュワリーが指揮棒を上に上げる。
紫色の髪を結った彼女も、今年で引退だ。
水色のグラデーションのその指揮棒は、光を反射し、儚げに光った。
すぅぅ、と聖女たちの息の吸う音が揃う。
柔らかく、息を吹き込む。
指揮者を見ながら指を動かし、音色を奏でる。
不安だ。
でも。
最高に楽しい。
聖女吹奏楽団は、もう一つ別の仕事がある。
個人で活動して、リクエストに応えて演奏をすることだ。
私は今日、指名されてしまった。
金髪の中年男性は、黄色の椅子に腰掛けた。
青色のカーテンが揺れ、庭が見える。
嫌だなぁ───私は直感的にそう感じた。
「膝の怪我を、直してくれますか」
男性は頬を赤らめながらそういった。
この人の怪我を治して、私はなにになるのだろう。
この人に美しい姿を披露して、なにになるのだろう。
どうして私は────。
「わかりました」
私は目を伏せた。
長いまつ毛が額に当たる。
「聖女の祈り」
私はそう呟き、テナーサックスを構えた。
光沢のある楽器は、ほんわりと光った。
私が息を入れて吹くと、キラキラしたものがベルからゆっくりと流れ、男性の膝へと向かっていく。
これが、魔法だ。
メゾフォルテからのフォルテ。
スラー、タンギング。
私は邪念を払いながら、なんとか吹き切った。
「美しいです」
私はその言葉をもう受け付けようとしなかった。
私は男性の手を握り、歌うと、お辞儀をして部屋の外へ出た。
部屋を出ると、重たい空気が肩にのしかかるようだった。
廊下の青い絨毯の感触もいつもより冷たく感じる。
「膝の怪我、よくなるといいね……」
自分の声が小さく響いて、どこか遠くに消えていく。
庭を見下ろす大きな窓の向こう、柔らかな午後の日差しが揺れている。
だけど、私の心は沈み、先の見えない闇に包まれていた。
“私がこの世界でできることって、本当にこれだけ?”
そんな疑問が胸の中で膨らんでいく。
私は頭を振り、練習室へと歩き出した。
練習がおわり、屋敷に戻ると、ロッティア家当主の父が書斎で待っていた。
「お前、今日の仕事はどうだった?」
そう穏やかに尋ねられたけれど、私は答えに詰まる。
父の顔は少し曇り、低い声で言った。
「マチルダ、聞いておけ。聖女を辞めて職を失った者は、街に出ると危険だ。盗賊に狙われ、攫われてしまう話は多い。売り飛ばされたり、取り返せないこともある」
「え…?」
もし失敗したら、私は、私は…!?
「失敗したら、保証はない」
父の声は冷たく、まるで私がもう価値のない物のようだった。
「この家の聖女としての役目を果たせなければ、用済みだ。外の世界は甘くない。お前の身がどうなっても、俺には関係ない」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
守ってくれるはずの父が、こんなにも冷たいなんて。
──大丈夫。心を強く持って。
彼の、声。
私の初恋相手の─────────。
「……それでも、私には音があります。音だけは裏切らないはずです」
そう言っても、父は冷ややかな目を逸らした。
「音がどうした? 聖女に必要なのは結果だ。お前の感情なんて、誰も求めていない」
私は握りしめた拳が震えるのを感じながらも、必死で自分を奮い立たせた。
冷たい言葉に耐え、笑顔を作る。
泣きそうになりながら、書斎を後にした。
麗しい髪の毛がひらりと舞い魅力的な首筋があらわになった。