聖女の故郷、私の故郷
ここは水に満たされた異世界。
私はマチルダ・ロッティアであり、守谷友。
ざわめきがおさまってきたのに、まだ心の奥が漣だっている。
ピレシャノール家に来てまだ少ししか経っていないのに、吹奏楽団にいたころが遠い昔に感じられた。
これまで、頑張った。
そしてこれからも、頑張らなくちゃいけない。
「いってきます」
私が微笑みながらいうと、
「行ってらっしゃい」
漆黒の髪の青年━━━━━━カイトは硬いながらもとろけるような笑みを返してくれた。
漆黒の髪、湖のような輝きを纏ったあおい瞳。
名家・ピレシャノール家の長男、カイト・ピレシャノール。
そして、マチルダ・ロッティアの婚約者。
無慈悲で冷酷。
周りからそう噂されていたが、実際、全く違うものだった。
優しく、そして、少しお茶目。
カイトをだんだん好きになり始めていた。
魔物退治に行かなければいけなくなったのは、街で騒ぎができたことが原因である。
私は手に握っている銀色の滑らかな楽器ケースに力をこめる。
その中には私の相棒のテナーサックスが収められている。
それには美しい彫刻があり、私の好きな花、ネモフィラが彫られていた。
私は屋敷に背を向けると、歩き出した。
潮の流れは私の星屑色の髪をさらい、遠くへと流れていった。
白い瞳はキラキラと虹色に輝き、庭の美しい風景を繊細に映し出した。
戦闘未経験の聖女。
この世界ではこんなことはよくある。
けれども、私の中に不安が積もっていく一方だった。
「えーっと、え?ここって…」
地図を見ながら歩いていると、思わず声を上げた。
麗しい声が街に響く。
「〈マ・レ・ヤマリン〉…」
私がかつてアルバイトをしていたパン屋だ。
優しくおおらかなオーナーのカルメが経営している。
もしかして、カイト様はこれを知っていて、私をここに……?
私はぶんぶんと首を振る。
そんな、知ってるわけがない。
私は深呼吸をして、ドアを押し開ける。
木でできたノブの温かい感触が手に伝わる。
からんからん。
ベルが揺れ、可愛らしい音を奏でる。
そこにいたのは━━━━白髪のお婆さん、カルメ。
あぁ、なんて懐かしいのだろう。
じわっと涙が込み上げてくる。
カルメがこちらに気付き、振り返る。
「ティル……ちゃん…?」
「カルメさん!」
ぎゅっと目を瞑ると、涙が頬をつたる。
カルメも喜んでくれる。
そう思った。
私の空想を破ったのは、カルメの怒号だった。
「急にいなくなって!どれだけ心配したことか!」
カルメが私の肩を揺らす。
「何かあったとか、色々考えて…お使いなんて頼まなきゃよかったって!でも…無事でよかった…」
カルメは鼻をすすると、受話器を手に取った。
心配させてたんだな。
いたたまれない気持ちになる。
けど、嬉しい。
私の無事を、宿の女将・マリーに伝えるカルメを見つめながらそう思った。
前と違い、スカーフを纏っていないことに気づく。
もう、隠さなくていいんだ。
カイト・ピレシャノールの婚約者、マチルダ・ロッティアとして、生きていくことになるんだ。
そう実感したとともに、安心感を感じた。
帰る家があるって、こんなに大事なんだ。
「わ、ティルちゃん!」
マリーと、パン屋の常連の金髪の少女、マルルが飛び出してくる。
いつにも増して激しく、カラカラとベルが揺れた。
「心配したんだよっ」
ぷくっとマルルがはおを膨らませる。
「こりゃぁ、よかった、よかった」
「クリームパン食べようよー」
「ティルちゃん、何食べたい?」
皆が咳をきったように話だし、小さなパン屋は話し声で包まれた。
「じゃぁ、クリームパンで」
私がすずを転がすように笑うと、マリーはニコッと軽快に微笑んだ。
「うちの宿、泊まっていきな。何か用があってきたんだろ?」
§§§
「━━━なるほど、魔物退治に。そして、名家の婚約者になってるとは、驚いたね」
てんてけ。マリーが銀色の縁取りの三味線を奏でる。
ここはマリーが経営している宿の一階。
壁には大きな人魚の絵が飾られてある。
私が前にいた時にはなかったものだ。
「…はい。それで、目撃情報とかないですか?」
私が問うと、マリーは少し黙って答えた。
「そうだね、お客さんから聞いた話だけど、最近街にある家の陶器の皿がどんどん割れていっているらしい。置き物も」
陶器の皿が割れていく。
それが魔物の被害?
そんな私の疑問を感じ取ったのか、マリーはさらに口を開いた。
「その後には白い綺麗な毛が落ちててね、魔法使いによると、魔物の毛らしいんだ。だが、その魔物は特殊で、楽器による魔法でしか倒せないんだと、いっていたよ」
「なるほど…」
どうりで私が呼ばれたわけだ。
ここは聖女吹奏楽団の本拠地とは離れているし、魔法使いが少ない田舎の町。
呼ぶのも一苦労だろう。
多分、オークションで情報が流出してしまったのだ。
明日にでも聞き込みを開始しよう。
なるべく早く仕事を終わらせて、ゆっくりしたかった。
「前使ってた部屋でいいかい?」
「はい!」
元気よく返事をすると、ふわっと星屑色の髪が水に靡いた。
ドアを開けると、懐かしい檜の匂いが鼻をくすぐった。
久しぶり。
窓にかけられてあるりんごの絵を撫でると、荷物を床に下ろす。
カイト様、元気にしてるかな。
━━━━離れていても、みんなおんなじ空を見てるんだ。
うん、そうだよね、涼くん。
濃厚な縁取りの窓を上に引き上げると、爽やかな潮の風が部屋に吹き込んだ。
それに乗せられて、ミントやハーブなどの薬草の匂いが部屋に満ちていく。
なんて、綺麗で、のどかで、平和なんだろう。
張り詰めていた糸が解けていく感覚に襲われ、ベッドにダイブした。
「……」
ようやく、頭の中を回っていた何かが消えていく。
そうしてしばらく、光と水と、ハーブの香りの揺らぎを眺めていた。
窓からさらに強い光が差し込み、銀色の楽器ケースが光を反射し、さらなる銀色の光が生まれる。
少しだけ、守谷友━━━私の家に帰った気がした。
「ただいま」
私の小さなつぶやきは、水の向こうへと溶けていった。