あの人の影
「おはようございます!」
「おはようございます」
先輩と挨拶を交わす。
私は大きい声を出すのは得意ではないし、年上を相手にすると声が出ない。
だから、なるべく笑顔で、元気よく挨拶をするようにしている。
私は、吹奏楽部、テナーサックスパートの守谷友。
私は最初、自分がテナーサックスになるだろうなとか、ましてやサックスになるだなんて思っていなかった。
だから、先生から聞かされた時は嬉しかったし、たった1人のパートってなんかかっこいいな、と思っていた。
「おはよ、ゆうらっちょ」
「やっほぉ、ゆう!」
独特のイントネーションでホルンパートの優楽が手を振ってくれる。
「やっぱ、コンクール終わってから、一緒の部屋にならなくなったよね」
優楽が悲しそうに、でも楽しそうに話題を口にする。
ゆるゆると、優楽のポニーテールが揺れる。
「だよね。木管と金管だし」
私は部活バックを肩にかけながら答えた。
コンクール前は、先輩たちはコンクールで忙しく、一年生だけでまとめられることが多かったのだけど、三年生の引退式へと準備がすすめられている今、どちらかというと「学年関係なく、パートで」といった感じだ。
遠くに見えるビルの群をなんとなく眺めてから、がんばろ、と第一音楽室の前で、楽器と譜面台を持って別れた。
私の先輩は、すっごく可愛い。
反応が可愛いし、いろんなことを教えてくれる。
もっと、先輩と仲良くなれたらなぁ…。
なんて思いながら、サックスの練習場所へと向かう。
私が年上のコミュ障だからいけないんだ。
どうしたらなくせるんだろうなぁ。
それに比べて、ガンガンいける優楽とか、フレンドリーに話せる涼君は羨ましくて仕方がない。
頑張るか…。
そう心の中でつぶやいても、解決策を見つけたわけじゃない。
今日は、美術室での練習である。
もう、音楽室から遠いし、勘弁してくれって感じなんだけど。
「こんにちは〜」
「こんにちは」
美術室には先客がいた。
アルトサックスの、八木舞花先輩と、
同じくアルトサックスの、神田詩夢先輩だ。
2人とも上背がある。
ここの学校は皆、髪を結ばなければならなくて、大体の人がポニーテールだ。
テナーサックスを机に置いて、譜面台を袋から取り出す。
青色のラメが入ったピアノのキーホルダーが揺れた。
***
「おはようございます、マチルダお嬢様」
朝起きると私は、たくさんのメイドに囲まれていた。
「カイト様の婚約者と聞いております。これから私たちがお世話をさせていただきます」
メイドのリーダーらしいのが、今私がはなしている女性だ。
赤茶の髪に、黄色の眩しい目。
口元にはにこやかな笑み。
優しそうだな、と思った。
マチルダ・ロッティア。
前世の名前は、守谷友。
吹奏楽部員のテナーサックスパートだった。
白色の目、星屑色の髪、麗しい首筋━━━━。
世にも麗しい聖女、マチルダ・ロッティアへと転生してしまった。
私が寝ているベットは、ヨーロッパのお姫様のようなベットで、全てが青調だ。
上にはキラキラと光を反射する魚のシャンデリア、壁には優美な絵が描かれている。
「今日もお綺麗です」
昨日を見たことがないだろうに、と不満を覚えながら、ベットから降りた。
ふわぁり。
星屑色の髪が水に舞う。
ちりと水がキラキラと輝いた。
ドレッサーの横には、銀色の滑らかな楽器ケースがある。
あの中にはテナーサックスが入っていて、私の相棒だ。
壁はローズクォーツでできているようで、手を当てると冷たさが伝わってきた。
「今日は、茶会でございます」
メイドのリーダー━━━━━アンナが私の髪をとかしながらいった。
茶会。
ミアと、エドワードにも会うのだろうか。
もしかしたら、演奏をしなければいけない…?
「テナーサックスもお持ちになってと、ミア様から言伝です」
やっぱりか。
鏡に映る自分は、明らかに名家の聖女だ。
私はメイクをされ、着飾られ、髪を結い上げられた。
仕上げに、ネモフィラのかんざしがお団子に刺さる。
少しだけ、カイトに会えるのが楽しみになっていた。
***
茶会は、カイト、ミア、エドワード、それと、その他の名家の方々。
ティーカップの澄んだ音が、庭に広がる静寂を破った。
金と青のテントが張られた中庭には、名家の貴族たちが静かに談笑している。
白いテーブルクロスの上には繊細なレース、花瓶にはネモフィラの花が活けられていた。
その一角に設けられた特別席。
私はそこに座っていた。
「よく似合っているわ、マチルダ」
ミア・ピレシャノールが、カップを口元に運びながら微笑んだ。
その目には笑みがあるのに、瞳の奥には冷たい湖面のような静けさがあった。
「ありがとうございます。ミア様に選んでいただいた髪飾りですから」
「ふふ……気に入ってもらえて嬉しいわ」
口元に浮かぶのは、まるで少女のような愛らしい笑み。
だが、私はもう知っている。この人の笑みの下に潜む、獣のような眼差しを。
「この茶会は、あなたの“紹介”の意味もあるの」
ミアはさらりと続けた。
「今ここに集まっているのは、ピレシャノール家にとって重要な繋がりを持つ名家ばかり。あなたが、どんな聖女であるかを、皆に知ってもらう場でもあるのよ」
「……私の演奏も、ですか?」
「もちろん」
少しも揺るがない声音だった。
まるで「当然」とでも言いたげに、ミアは上品に頷いた。
「聖女であるあなたの“音”は、名家の者にとって興味の的。神の音を有する者が、どの家に属するか──それは、政治においても力を持つの」
その言葉の端々に、“あなたの立場を忘れないで”という暗い響きが混じっている。
だが、私は俯かなかった。
たとえ売られた聖女でも、私は私だから。
「恥じない演奏をお届けできるよう、努力します」
そう答えると、ミアの瞳に微かに意外そうな色が走った。
「……ふふ。強くなったのね、マチルダ。ほんの少し前までは、怯えた子猫のようだったのに」
「それでも、演奏だけは……譲れませんから」
そのとき、遠くから聞こえる靴音が、私たちの会話を断ち切った。
名家の一人が、遅れて茶会に現れたのだろう。
「来たようね。少し、変わった子よ。……でも、見る価値はあるわ」
ミアの言葉に、私は何気なくその方向に目を向けた。
そして━━━見てしまった。
それは、彼だった。
いや、彼ではない。
でも、似すぎていた。
私の心が凍る。
━━涼……?
私の初恋の相手の、前谷涼に似ていた。
「初めまして、マチルダ様、カイト様。私の名は、セシルといいます」
オレンジの髪に、薄い水色の瞳だけれど…
声まで、そっくりだった。
彼は、セシルという役を演じているのだと━━そう信じたかった。
カイトは、私の視線が彼に奪われたのが嫌だったのか、私を抱き寄せた。
「うぇっ?!」
ぱたん、とカイトに倒れ込んでしまう。
周りの水を蒸発させてしまうのではというくらいに、顔が熱くなる。
男子の体。
ドキン、ドキン。
心臓の音がうるさい。
「……」
カイトはしばらくセシルを見つめていたが、やがてセシルはミアの元へと向かって行った。
見上げるとそこには、底なし沼の湖の瞳。
カイトは何事もなかったかのように、ズズ、と紅茶を飲み始める。
いや、ズズ、じゃなくて!
「カ、イト、様?」
白い目を瞬かせながら、名前を呼ぶ?
「?」
カイトがこちらを見下ろす。
?って…。
少しだけしょんぼりしながら、セシルのことを考える。
涼君、なのかな…。
半ば放心状態で、星屑色の髪の毛に触れた。
〈次編へ続く〉