第八幕 誰も見たことのない劇へ
六月の風が、まだ初夏の名残をとどめた緑を揺らしていた。
舞風学園の窓から見える校庭では、様々な部活の練習が微かに聞こえる。
放課後の演劇部部室。
ひのりが真っ先にイスを引いて腰を下ろし、両手を机に広げた。
「……で、今日の練習って“話し合い”なんだよね?」
「うん。音屋先生が、“ちゃんと話しておくことがある”って」
七海がプリントを手に資料を確認しながら答える。
全員が揃ったタイミングで、扉が開き、音屋亜希先生が入ってきた。
「――みんな、集まってるわね。じゃあ話を始めましょうか」
先生は教卓代わりの机に資料を並べながら、穏やかに言葉を続けた。
「今日は、大会の話をしようと思います。毎年秋に行われる《全国高校演劇交流大会・県地区大会》。9月下旬、本校も“推薦校”として出場の意思確認が来ました」
空気がピンと張り詰める。
「……出場するってことですよね? 当然」
唯香がまっすぐに問いかける。
「もちろん、出場は任意。でも私は――あなたたちなら、もう挑んでいい時期だと思ってるわ」
その言葉に、全員の目がわずかに見開かれる。
「去年の秋と冬、そして春。3回の校内公演を通して、あなたたちは“ただ楽しいだけの舞台”を越えてきた。だからこそ、次は“他校と同じ土俵に立つ”意味のある挑戦になる」
りんかがにやっと笑って言う。
「つまり……バトルだよね?」
「それ言い方悪い!」と紗里がツッコミを入れる。
ひのりは目を輝かせて机に前のめりになった。
「うわぁ……本当に大会出るんだ……! ついに“舞風学園演劇部、外の世界デビュー”だね!」
「本番は九月末。だけど大会演目の〆切は七月中旬。夏休みを稽古に使うとして、企画は今月中に固めてほしいわ」
音屋先生が言葉を区切ると、全員が一斉に考え込む空気になった。
音羽がぽつりと呟く。
「……どんな話にするかが、すべてね。私たちにしかできない舞台……か」
「演じる側の人数が多くなった分、演目の幅は広がったけど……」
七海が資料をめくりながら口にした。
「――逆に、“何をやるか”でぶつかりそうな予感もするわ」
まひるは少し不安げに口を開いた。
「衣装も、ある程度時間がかかるし……早めに決まった方がいいです……」
「わ、私も……演出案、ちょっと考えてみたりしてて……」とみこが手を挙げる。
「案出し合戦か~!」と紗里がワクワク顔で身を乗り出した。
唯香は一呼吸置いて言う。
「せっかくの大会。私は……“普遍的な何か”をやりたい。“共感”が届くもの。誰かの心に刺さる台詞を」
「そうね」と七海が頷く。
「ただのファンタジーでも、ただの学園劇でもダメ。“深み”がなければ意味がないわ」
「けど私は、楽しくて熱くて、動きもあるやつが好き!」
りんかが主張すると、ひのりがにこにこしながらうなずいた。
「分かる分かる! 笑いもあって感動もあって、最後にドカン!って拍手が来るやつ!」
「じゃあ戦闘シーンありの人間ドラマ、コメディ成分付きでどうよ!」
紗里のまとめに、全員から笑い声がこぼれた。
音屋先生が微笑む。
「台本は自作・既存どちらでも構わないけれど……今年の舞風演劇部らしさが出るものを期待してるわ。私は職員室に戻るわ」
音屋亜希先生が退室すると。多目的室の外、陽が少し傾き始めた。
熱い夏が始まる前――。
舞風学園演劇部は、新たな挑戦に向けてゆっくりと歩み出す。
部室はいつもより静かだった。
ワイワイとしたいつもの笑い声はなく、机を囲む9人の目は、それぞれ真剣に資料やノートに向けられていた。
「えーっとね、私考えてきたの。“バトル魔法学園ラブコメ”!」
ひのりが勢いよくノートを掲げた。
「まず、学園が空中に浮いてるんだよ! 主人公は転校生で、実は前世の記憶を――」
「却下」
七海が即座に言った。
「……え?」ひのりがぽかんと口を開ける。
「ひのり、それはそれで面白いかもしれない。でも、今は“大会の作品”を考える時間よ」
唯香の声も、静かに、しかしはっきりとした調子だった。
「う……うん、わかってるってば~」
ひのりはノートを胸に引っ込めて、照れくさそうに笑った。
「分かってないでしょ」七海が続ける。
「今の私たちは“ただの部活動”じゃなくて、“外部に向けて舞風を代表する”立場なのよ」
「……うぅ……すみませんでした」
ひのりは机に突っ伏した。
まひるとみこはオロオロと視線を交わし、りんかも「まあまあ……」と笑って場をなだめようとする。
その空気の中で、唯香が穏やかに口を開いた。
「ねえ、みんな。少しだけ、私の話を聞いてくれる?」
全員の視線が集まる。
唯香は自分のノートをめくりながら、遠い目をした。
「私は、子役としてずっと“決められた役”を演じてきた。台本は大人が書いたもの、演出も指示通り。……でも、いくつかの作品は、演じながらも“心から感動できた”の」
七海が小さく頷いた。
「たとえば、小学校の時に出た朗読舞台。たった一人で30分語るやつ。テーマは“声だけで世界を描く”。演出家は“飾りも照明も最低限でいい、観客の想像力を信じろ”って言ってた」
音羽が少し身を乗り出す。
「……それ、観てました。後で映像で。すごかった……ただの椅子と布なのに、まるで本当に“物語が見えた”ような……」
唯香は静かに続ける。
「舞台って、決して派手さだけじゃない。むしろ大事なのは、“誰の心に残るか”。大会は評価される舞台だけど……それは“感動させた数”じゃない。“届いた深さ”なの」
ひのりは頭をぽりぽりとかきながら顔を上げた。
「そっか……ごめん、ちょっと浮かれてた。“大会出るぞー!”ってテンションで。でも……唯香ちゃんが本気なの、伝わった」
唯香はふっと微笑んで頷いた。
「でも、ひのりらしい案も“方向性”としてはヒントになると思うの。ファンタジーとか、熱さとか、感情の振れ幅。私たちにしか出せない“色”をちゃんと出していけばいい」
「なるほどな……」紗里が腕を組んで言う。
「つまり、“全部アリ”だけど、“理由と意味”がなきゃ通用しないってことか」
「うん」七海が静かにうなずく。
「たとえばファンタジーでも、“現実の感情”をしっかり土台にすれば強い」
「じゃあさ、今度はみんなで“観客の心に何を残したいか”って視点で案を出してみない?」
みこが恐る恐る提案すると、全員が「それいいね」と頷いた。
ホワイトボードに「届けたいもの」を書き出す流れになった。
•「強さ」
•「家族」
•「赦し」
•「葛藤」
•「再生」
•「熱意」
•「後悔」
•「希望」
•「絆」
それぞれが出したキーワードを眺めながら、ひのりがつぶやいた。
「……ねぇ、もしかして、すごい舞台が作れるかも」
「それ、“本気でやる”って覚悟、できたってことでしょ?」
唯香の瞳は、まっすぐひのりに向けられていた。
「うん。やってやろうじゃん。――“大会優勝”、目指しちゃおっか!」
りんかが「キター!」とガッツポーズし、部室に笑いが戻る。
けれど、その空気の中に確かにあったのは、去年よりずっと研ぎ澄まされた“本気”だった。
ホワイトボードには、いくつかのキーワードが書かれていた。
【届けたいもの】【誰も見たことのない劇】【伝える演技】
部室の空気は、思った以上に真剣だった。去年までなら、ひのりがふざけた一言で笑いが起きていたかもしれない。でも今は違う。誰もが「本気」を意識している。
「“誰も見たことのない劇”って……どんなのだろうね」
ひのりがマーカーを持ちながら、ぽつりと呟く。
唯香が手を挙げる。
「まず、“奇抜さ”に走るのはやめた方がいい。“誰も見たことがない”って、単なる“変わったこと”じゃなくて、“新しい何かを届けること”だと思う」
七海も頷いた。
「観客の心に残る“何か”。それが、私たちの“新しさ”の条件になるはず」
まひるが口を開く。
「……あの、3月の“学年末ミュージカル”、私、動画で何度も見ました。みなさんが輝いてて……演技とか歌とかだけじゃなくて、“想い”が伝わってきて……泣きました」
みこは少し照れてうつむきながら、微笑む。
「……ありがとう。あれは、本当に、全部の想いを込めて演じたんだ」
「私も、何度も見返したよ。『夢は光』、あれ、しばらく頭から離れなかった!」
りんかがテンション高く言う。
「“魔法”が本当に届いた感じだったよね」
音羽が静かに言った。
紗里が懐かしそうに笑う。
「今思えば、“伝説の演劇”も、“夢は光”も、どっちも“ぶっ飛びながらも本気”だったな〜って」
「そうだね。最初のPRウィーク、ひのりが木の上で叫んでたやつ……」
真面目な空気の中、七海が吹き出しながら振り返る。
「脚立が揺れて、セット倒れかけて……」
みこが思わず笑ってしまう。
「でも、あの“異世界ファンタジー劇”って、“演じることで世界を変える”っていう、今思えばすごく演劇らしいテーマだったよね」
「そう。魔女ヴェルダとの戦いとか、あれって実は“観客に想いを届ける”ことの象徴だったのかも」
唯香が続ける。
「ってことは、去年のPRウィークと学年末ミュージカル、それぞれ別の形で“演劇の力”を描いたってことになるよね」
ひのりがゆっくり言った。
「だったら今年は……どうする?」
七海が問いかける。
少しの沈黙の後、まひるが小さく呟く。
「……“今の自分たち”を、演じるのはどうですか?」
全員がそちらを向く。
「たとえば、“演劇部”を舞台にした劇。“劇中劇”じゃなくて、“劇そのものが私たちの物語”。だけど、そのまま描くんじゃなくて、脚色して――フィクションとして表現する」
「リアルと演劇の、ちょうど中間みたいな舞台……?」
りんかがつぶやく。
「うん。自分たちを演じる。でも、それは“誰かに届く誰か”の役として。“これは私のことかも”って思わせるような物語にする」
唯香の声に、重みがこもっていた。
「“演劇部が演劇を演じる”って、かなりメタだけど……逆に、今しかできない気がする」
音羽が静かに付け加える。
「“舞台に立つことで、自分の心に気づいていく”――」
七海がホワイトボードに書き込んだ。
「“誰も見たことのない劇”って、結局“誰かの心にしか見えない劇”なのかもね」
ひのりが、ぼそっと言った。
「だったら……タイトルは仮だけど、“演劇部、心の仮面舞踏会”とか?」
紗里が面白がるように提案する。
「心の奥を仮面で隠しながらも、最後には“素顔”を見せる……」
みこがゆっくり頷く。
唯香が言った。
「今年のテーマは、“自分をさらけ出す勇気”にしない?」
七海が書いた。
【テーマ】:“本当の自分を演じる”
「よし! それ、決まり!」
ひのりが笑顔で言った。
「去年の“魔法”と“光”のバトンを、今年は“素顔”と“本音”で繋ごう!」
全員が頷いた。
――こうして、舞風学園演劇部2年目の大会演目は、“過去と未来を繋ぐ、自分たちの物語”として静かに動き出した。
部室のホワイトボードはすでに文字で埋まり、会議も終盤に差し掛かっていた。
そんな中――静かだったまひるが、そっと手を挙げた。
「……あの、私からも、ひとつ提案していいですか?」
全員が静かに彼女の方を向く。
「この劇の“仮面”って、心のことを表してるんですよね? だったら、衣装もその“心のかたち”を映すようなものにしたいんです」
まひるは、両手を胸の前で重ねるようにして、少し照れたように言った。
「お母さんとおばあちゃんが衣装作ってくれるんだけど、私も手伝って……役の“心の色”を、布で表現できたらって……」
「それ、めちゃくちゃいいじゃん!」
紗里がパッと笑顔になった。
「舞台上で、その衣装が“変化”していくのもアリだよね。仮面と一緒に脱ぎ捨てるとかさ!」
ひのりが食いつく。
「演出プランが広がるわ」
七海がメモを取り始めた。
そこに、りんかがぐっと手を挙げた。
「じゃあさ、仮面――本当に被っちゃおうよ!」
「……え?」
唯香がきょとんとする。
「だって、“仮面”って演劇にピッタリのアイテムじゃん? しかも最初は“素顔を隠す”けど、物語が進むにつれて一人ずつ“脱いでいく”。その瞬間に演技も本音になっていく、みたいな」
「演じるって“顔”も“声”も使うから、その両方を一度“隠す”ことで、逆に感情が際立つ……」
唯香が真剣な表情で頷く。
「演劇と仮面って、実はすごく相性いいのよ。ギリシャ劇や能もそうだし」
七海が知識を補足する。
「私、それ作るの手伝う! 陶芸教室で習ったことあるから、紙粘土よりちゃんとしたのができるかも!」
まひるが思わず目を輝かせた。
「それも“心の仮面”……って感じがして、いいな」
みこも静かに頷いた。
その流れで、音羽が、ふっと俯きながら口を開いた。
「……仮面って、“付ける”だけじゃなくて、“付けていたことに気づく”って瞬間も、大事なんだと思う」
「どういうこと?」
ひのりが聞く。
音羽は、ほんの少し間を置いて、ゆっくり言葉を紡いだ。
「私ね……今でこそ“低音でクール”って言われるけど、昔は全然違ってて。“目立たない声”とか“地味”とか言われて、悔しくて……演じることで“違う自分”を作ってきたの」
「……それ、初めて聞いた」
みこがぽつりと呟く。
「仮面を被ってたのは、自分の方だったって、気づいた時があった。
でもその“仮面の自分”も、たしかに私なんだって思えたとき、ようやく“本当の声”が出せたの。
――そんな役、やってみたいなって。劇の中で、誰かに“気づかされて”仮面を脱ぐ、自分を取り戻す役」
沈黙が流れた。
けれどそれは、誰もが“ぐっ”と心を掴まれたからこその、静けさだった。
唯香が静かに言った。
「……今の話、劇の“核”になるよ。
ただの“仮面劇”じゃなくて、“心の仮面”を通して“自己理解”の物語にできる」
「それってつまり――」
七海がペンを走らせながら言う。
《仮面=自分を守るための嘘。
それを脱ぎ捨てることで、本当の自分を見つける。》
「衣装も仮面も、全部“象徴”になる」
まひるが呟く。
「それぞれの仮面に、秘密や過去、願いが込められてるの……めっちゃ深くなるじゃん」
紗里が興奮気味に笑った。
「登場人物全員に“過去”と“仮面”があって、それを“演劇部の活動”として見せる」
ひのりが繰り返すように言った。
「そして、最後は――“それでも演じる”って選ぶの」
全員が、一斉にホワイトボードを見つめた。
そこに、唯香がゆっくりと、タイトルの候補を書き足す。
『仮面の庭で、私たちは演じる』
(しばらくの静寂)
りんかがぼそっと言った。
「……やっぱ舞風って、すごいな」
まひるが笑いながら頷いた。
音羽は、誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
「――また、新しい自分に会えそう」
その言葉は、確かに、劇の始まりを告げていた。
『仮面の庭で、私たちは演じる』
ひのりが、そっとマーカーを置いた。
「この劇で……“本当の自分”も、“演じる自分”も、全部込めよう。
そうしたらきっと、今までにない舞台になる」
七海が静かに笑って言った。
「“誰も見たことのない劇”――ようやく、見えてきたね」
その言葉に、全員がふっと頷いた。
扇風機の回る音だけが静かに響く部室に、
少しだけ、未来の舞台の気配が漂っていた。
そう、ここから――
大会に向けての物語が始まる。
続く。