第七幕 衣装か演技か、まひるの悩み
土曜の朝。
舞風学園の制服ではなく、生成りのエプロンを身につけた成川まひるは、古いミシンの前に座っていた。
カタカタと規則正しく針が上下し、鮮やかな朱色の糸が布の縁をなめらかに縫い合わせていく。
窓から射し込む光が、布の表面で柔らかく揺れた。
まひるは唇を結び、目の前の布にひたすら集中していた。
背後から、布を裁つ鋏の鋭い音が響く。
母・成川美沙は長年の経験で無駄のない手さばきを見せていた。
さらに奥の和裁台では祖母・初枝が黙々と糸を通し、着物の裾を直している。
「……まひる、縫い目が少し寄ってる」
美沙がふと視線を送る。
「……はい」
まひるはすぐに糸をほどき、やり直す。声は小さいが、迷いはない。
「一度の失敗で気を落とさかいのよ。大事なのは正確さだわ」
祖母の声は低く、しかし温かさを含んでいた。
「……うん」
まひるはわずかにうなずき、再び針に目を落とした。
⸻
作業場の壁には、色とりどりの糸の棚が並び、白熱灯が昼間でも煌々と灯されている。
机の上には布の切れ端やチャコペン、仕立て図。
家族の会話は少なく、工房にはミシンの音と鋏の音だけが響いていた。
まひるは布を返しながら、指先に小さな絆創膏が並んでいるのを見た。
(……まだまだ、未熟だな)
心の中で小さく呟く。
そのとき、店の入り口のベルがチリンと鳴った。
「こんにちはー」
近所の奥さんが顔をのぞかせる。手には和装の袋を抱えていた。
「来週の舞踊会で使う着物なんですけど……裾がちょっと長くて」
母がにっこりと応じる。
「はい、お預かりします。少し上げるだけですね」
祖母が歩み寄って布地を確かめる。指先で軽く撫で、すぐに針目の加減を見抜いた。
「すぐ直せる。明日の夕方には渡せるよ」
「助かります〜。ありがとうございます」
奥さんが安堵の笑顔を見せる。
まひるはその横で、静かに裾を計りながら待ち針を打った。
手際は確かで、余計な会話はない。だが奥さんは「まあ、しっかりしてるわね」と感心したように笑った。
⸻
昼近く、別のお客さんがやってきた。
今度は若い母親に手を引かれた七歳くらいの女の子だ。
「七五三の衣装をお借りしたくて……」
祖母が頷き、奥から色鮮やかな着物を取り出してくる。
まひるは棚から小さな帯を運び、女の子に合わせてみた。
「わぁ……! お姫さまみたい!」
女の子がくるくると回って喜ぶ。
「とても似合ってますよ」
母が微笑み、祖母も目を細める。
まひるは少しだけ口元を緩めた。
(……こういう瞬間は、好き)
けれどすぐに表情を引き締め、帯を整え直した。
⸻
午後にかけても、作業場はずっと忙しかった。
裾直し、仮縫い、返却されたドレスの点検。
まひるは休む間もなく手を動かし続けた。
家族との会話は必要最小限。
「糸を渡して」「それは裏布だから」「次はこの寸法で」
そんな短い言葉を交わしながら、三人は一糸乱れぬ連携で作業を進めていった。
(……私は、ここにいる時が一番落ち着く)
布の感触、糸の張り具合、アイロンの重み。
それらはすべて身体に馴染んでいて、まひるにとっては呼吸のようなものだった。
だが同時に、胸の奥に小さな影もあった。
(でも……部活では、私は“演じる側”にもならなきゃいけない。衣装だけ作ってればいいわけじゃない)
ほんの少し、針先が震えた。
祖母がちらりと視線を向ける。
「……疲れたか?」
「……ううん。大丈夫」
まひるは小さく首を振り、また布に集中した。
その表情は相変わらず寡黙で、職人の顔をしていた。
⸻
外では、夕方のチャイムが鳴り始めていた。
成川衣装店の一日は、まだ続いていた。
夜。
工房の明かりが落ち、静けさが戻ったころ。
まひるは自室にこもり、机に積み上げられた布見本やスケッチ帳を横に押しやり、ノートPCを開いた。
お菓子の袋を抱えたまま、配信サイトをクリック。
画面に広がるのは、派手な衣装を纏ったアイドルアニメのライブシーンだった。
カラフルな照明、華やかなステージ衣装、観客の熱気。
「ひゃっ……! や、やっぱ尊い……!」
思わず口から漏れた声に、自分で慌てて口を押さえる。
画面の中でキャラクターがターンするたびに、まひるはノートに走り書きを始めた。
(スカートは二重仕立て……裾のチュールが光拾ってる……。あ、肩のリボン、跳ねても型崩れしてない!)
けれど、ふとシーンが盛り上がると、鉛筆を持つ手が止まる。
キャラクターが真っ直ぐに歌う姿に、胸をぎゅっと掴まれた。
「うう……かわいい……! ああ……舞台に立つ人って……なんでこんな……」
顔を両手で覆いながらベッドに転がり、足をばたつかせる。
(あんなふうに歌ったり踊ったり……無理、絶対無理……! でも……憧れる……!)
やがて再生が終わり、エンドロールが流れる。
まひるは肩で息をしながら、ノートを胸に抱きしめた。
「……はぁ……やっぱり……すごいな」
小さな呟きが、部屋の中に溶けていった。
そして土日が終わり、平日の舞風学園の放課後の部室。
机の上には図書室で借りてきた童話集や戯曲が積まれている。
「よーし! 今日は朗読大会だーっ!」
ひのりが大げさに両手を広げると、紗里が呆れ顔で肩をすくめた。
「はいはい、遊びにしないでよね。ちゃんと練習なんだから」
「分かってるって!」
笑い声の中で、最初に本を手に取ったのは音羽だった。
「……むかしむかし、あるところに――」
読み出した声は落ち着いて淡々。けれど次の瞬間には、低くしわがれた声に変わる。
「わしは村の長老じゃ……」
間髪入れずに甲高い少女声。
「やだー! おばけー!」
さらに熱血少年のような声で叫ぶ。
「オレが勇者だああ!」
部室は一瞬の静寂のあと、爆笑の渦に包まれた。
「ちょっ、勇者声カッコよすぎ! 完全にアニメの主人公!」
りんかが机を叩きながら笑う。
「……朗読じゃなくて一人芝居になってる」
音羽は耳まで赤くしつつも、つい口元が緩む。
「わー! 音羽ちゃん笑ったー!」
ひのりが大騒ぎし、紗里が「レアだレアだ!」と囃し立てる。
音羽は「やめて……」と目を逸らしたが、その顔は確かに楽しげだった。
――そして次は、まひるの番になった。
本を胸に抱きしめて立ち上がる。
深呼吸をひとつしてから、震える声で読み始めた。
「……むかしむかし、あるところに……おじいさんと……おばあさんが……」
静かで、丁寧。けれど声は小さく、部屋の隅までは届かない。
それでも、言葉のひとつひとつを大切に紡ぐように読んでいた。
「うん。聞き取りやすいけど……もう少し大きな声を意識してみて」
七海が冷静に指摘する。
「でも、一語一語を大事にしてるのが伝わったわ。まひるちゃんらしい朗読よ」
唯香が優しくフォローを入れた。
まひるは顔を赤くして、ぎゅっと本を抱きしめる。
(……やっぱり、声は小さいって言われちゃう。舞台じゃ足引っ張るだけなのかな……)
彼女の胸に、小さな影が落ちていた。
練習が一段落して、部室の空気が少しゆるんだ。
窓の外は夕焼け色に染まり、机の上には飲みかけのお茶と借りてきた本が積まれている。
「はぁー、今日も声出したなぁ!」
紗里が椅子の背にもたれて大げさに伸びをする。
その隣で、まひるは本を閉じ、膝の上でぎゅっと握りしめていた。
朗読のときの自分の声を思い出して、胸の奥が重たくなる。
(やっぱり……私の声、小さいし……演技って感じじゃない……)
そんな彼女の沈んだ気配を、みこがそっと見逃さなかった。
「……まひるちゃん」
「ひゃっ!? な、なに……?」
突然名前を呼ばれて、慌てて顔を上げる。
「声は小さかったけど……ちゃんと届いてたよ。ひとつひとつ大事に読んでるの、分かったから」
みこはにこっと微笑む。
「そーそー!」紗里も勢いよく加わった。
「てかまひるの声ってさ、なんか“安心感”あるんだよな! ゆったり落ち着く感じ? 舞台でも絶対武器になるって!」
「……安心感……?」
まひるはぽかんとした顔で、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「でも……私……衣装作りのときしか、自信持てなくて」
ぽつりと、心の奥を吐き出す。
「家が衣装店だから、小さい頃からずっと布を触ってて……。だから縫ったりデザイン考えたりするのは好きなんです。
でも、演じることは……やっぱり、どうしても苦手で」
彼女はおずおずとカバンから小さな手帳を取り出す。
中には布の切れ端や鉛筆のスケッチがびっしり貼られていた。
「これは……?」
ひのりが覗き込む。
「毎日、少しずつ……浮かんだアイデアを描いてるんです。
朝起きてから夜寝るまで、頭の中で“この布ならどう動くかな”とか、“照明で映えるかな”って考えてて……」
その言葉に、部屋がしんとする。
まひるが自分を責めるように俯いたとき――
「なにそれ! めっちゃプロの職人じゃん!」
紗里が机を叩いて大笑いする。
「そ、そう……?」
「うん! だってアタシらなんて台本覚えるので精一杯なのに、まひるは部活以外の時間も“舞台のこと”考えてるってことだろ? それ、立派な努力だって!」
りんかの発言にみこもうなずき、優しい声で言う。
「まひるちゃんがいるから、私たち安心して舞台に立てるんだよ。衣装って、私たちのもう一つの“役”だから」
まひるははっとして、顔を赤らめる。
「……安心して舞台に……立てる……」
その言葉は、彼女の胸の奥で静かに響き続けた。
その夜。
工房の灯りはまだ明るく、ミシンの音が遠くで響いていた。
まひるは自室からスケッチ帳を抱えて降りてきた。
机の上では母・美沙がドレスの裾をまつり、祖母・初枝は反物を巻き直している。
「……お母さん、おばあちゃん」
まひるは少し緊張した声で呼びかけた。
二人が同時に顔を上げる。
「どうしたの、まひる?」
美沙の声は穏やかで、けれどすぐに何かを察したような眼差しだった。
「……演劇部のこと。最近、公演の練習が本格的になってきて……。私、衣装も作りたいし、演技の練習にも時間をかけたいし……」
まひるは言葉を探しながら、ぎゅっとスケッチ帳を抱きしめる。
「でも……どっちも大事で。どうしたらいいか……分からなくて」
少し間があいた。
初枝はゆっくりと糸を針に通しながら、落ち着いた声で言った。
「まひる。あんたが“両方やりたい”と思うなら、それでいいんだよ」
「でも……時間が……。衣装は、私にしか作れないし……初公演の時も一人で頑張ってきたから」
美沙がくすっと微笑んだ。
「それは違うわ。衣装なら、私やおばあちゃんだって手伝える。むしろ、それが私たちの仕事でしょう?」
「え……」
まひるは思わず顔を上げる。
「演劇部でのまひるは“役者”でもあるんだから。演じることを諦めなくていいの」
美沙は縫い針を止め、まひるの手にそっと触れた。
「家業はいつでも手伝えるし、衣装だって一緒に作ればいい。けれど舞台で仲間と演じる時間は、今しかないわ」
初枝もうなずく。
「そうだよ。舞台の衣装も演技も、両方があって初めて輝く。……それに、まひるが悩むのなら、私らが支えてやるのが当然だ」
「……私が、支えてもらっていいの?」
まひるの声が震える。
「当たり前じゃない。だって、家族だもの」
美沙は柔らかく笑った。
初枝も微笑みながら、まひるの肩を軽く叩いた。
「大事なのは、自分がやりたいと胸を張って言うことさ」
まひるはスケッチ帳を胸に抱え直し、じんわりと涙がにじむのを感じた。
(……衣装も、演技も、どっちもやっていいんだ)
工房の灯りは温かく、三人の影を柔らかく照らしていた。
部室の翌日。
練習が終わったあと、まひるがちょっと照れながら口を開く。
「……あの、私……演技の練習も、もっと頑張ろうって思います」
「おっ、まひるがやる気モード!」紗里がすぐ茶化す。
「で、でも……衣装のことも、やっぱり大事で……。でも昨日、お母さんとおばあちゃんが言ってくれたんです。“衣装作りは家族で支えるから、まひるは演劇も頑張りなさい”って」
「へぇ〜! 優しいお母さんとおばあちゃんだね!」ひのりが目を丸くする。
「そう。だから……衣装は家族と一緒に作る。演技はみんなと一緒に練習する。どっちも私にとって大切だから……両方、全力でやります」
その言葉に、部室がふわっと温かくなる。
「まひるちゃん……頼もしい!」みこが拍手し、
「安心しなよ! 演技は私たちが一緒に鍛えるから!」りんかが元気に笑う。
「衣装も演技も両方できるなんて……あんた、最強じゃん」紗里もにかっと笑う。
七海も静かにうなずいて一言。
「衣装も舞台の一部。あなたがその両方を担うなら、舞風の舞台はもっと強くなるわ」
唯香もにこやかに加える。
「ええ。まひるさんの“二つの力”があれば、きっと観客を惹き込めるわ」
みんなの言葉に、まひるは顔を赤くしながらも、しっかりとうなずいた。
(……私、ひとりじゃないんだ)
そして小さな笑顔が浮かぶ――。
そして部室では練習を開始し、輪になって発声練習が始まっていた。
「アーエーイーオーウー!」
全員が声を張る中、まひるも少し顔を赤くしながら口を開く。
「……ア、エ、イ、オ、ウ……」
最初は小さな声。けれど、みこが隣でにこにことうなずき、ひのりが「もっとお腹から!」と声をかけると、まひるは大きく息を吸い込み――。
「アーー!」
思ったよりも大きな声が響いて、本人がびくっとする。
「わっ、出たじゃん!」りんかが笑って手を叩き、
「うん、今のすごくよかった!」唯香も頷いた。
まひるは恥ずかしそうに下を向きながらも、胸の奥に少し温かいものを感じていた。
⸻
そのあとは台詞練習。
七海が用意した短い戯曲の一節を、ひとりずつ順番に読む。
まひるの番。
本を持つ手が少し震えたけれど、昨日の母と祖母の言葉を思い出す。
(大丈夫……衣装も、演技も……両方やるって決めたんだ)
「……“私は……たとえ誰に笑われても、この道を進む”」
声はまだ拙い。けれど、以前よりもはっきりと響いていた。
「……おぉ!」紗里が思わず拍手する。
「言葉に芯があったな」七海も冷静に評価する。
まひるは少し照れながらも、胸を張って小さく笑った。
(……これからも、頑張れる。みんなと一緒なら)
続く。