第六幕 仮面の下の音羽
朝の通学電車は、始業前の静けさと喧騒が入り交じっていた。
吊り革につかまる人、スマホを睨む人、ぼんやり窓の外を見つめる人。ざわざわとした雑音の中、音羽はイヤホンを耳に差し込み、クラシックの旋律を小さく流していた。
ピアノとヴァイオリンが交差する穏やかな旋律が、車内の騒がしさを遠ざける。
音羽は窓際の席に腰を下ろし、視線を外に向ける。
通り過ぎる住宅街、コンビニの前で笑いながら朝食をかき込む学生、赤信号に止まる自転車。
(……今日も、同じ景色)
小さく息を吐く。
クラシックを聴くと落ち着くけれど、それは同時に「外の世界に混ざれない」証のようにも感じていた。
音羽は鞄に手を伸ばし、少し古びた台本を取り出しかけて、やめた。
人目のある場所で声を出すのは苦手だ。誰かに「何やってるの?」と視線を向けられるのが怖い。
代わりに指先で台本の端をなぞり、目だけでセリフを追った。
(声なら……いくらでも変えられるのに)
それは彼女の強みであり、同時に“隠れ蓑”でもあった。
七変化の演技と呼ばれても、それは「本当の自分」を覆い隠すための仮面。
人前では“声”を変えられるのに、“自分”を出すことはできない。
――ふと、視線が動いた。
隣の車両、窓越しに座っているのは唯香先輩だった。
きちんとアイロンのかかった制服に、シンプルで上品な髪留め。
膝の上には分厚い参考書とノート。姿勢を崩さず、真剣にページを追う横顔。
(……やっぱり、すごい人だ)
周囲の社会人や高校生が、ちらちらと唯香を見ているのが分かる。
「芸能人かな」「モデル?」と囁く声が耳に入る。
それでも唯香は気づかないふりで、ひたすらに勉強を続けていた。
音羽は、無意識にイヤホンの音量を少し上げた。
自分とはあまりに違う存在。特別で、遠い人。
それなのに、なぜか同じ電車に揺られている。
音羽は小さく息を吐き、イヤホンの音量を上げた。
唯香先輩は一度だけ顔を上げ、こちらに気づく。
音羽は慌てて目を逸らし、軽く会釈した。
唯香先輩も、ほんの少し顎を下げるように返してくれる。
それだけ。言葉はない。
(……恐れ多い。私なんかが声をかけるなんて)
胸の奥でそう呟いて、目を閉じた。
声なら七変化できるのに、本当の自分の言葉は出てこない。
電車の振動に揺られながら、音羽は唇を結んだまま座り続けた。
(舞風に入れば、少しは変われると思ったのに)
車窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。
無表情で、影を落とした瞳。
クラシックの旋律は流れ続けるのに、胸の奥は重たいままだった。
――電車は、舞風学園の最寄り駅、風丘駅に滑り込んだ。
音羽は立ち上がり、鞄を抱え直す。
ホームに降りると、朝の空気が少し温かった。
校門へ向かう道を歩く生徒たちの群れ。笑い声、話し声。
自分もその中に混ざりながら、音羽は一歩後ろを歩いていた。
教室。
二年生と一年生が混ざったざわめきの中、音羽は窓際の席に座っていた。
黒板にチョークの音が響き、教師の声が規則正しく流れる。
ノートにペン先を走らせると、数式や歴史の年号はきちんと整列していく。
(……頭には、入る)
書かれたことは理解できる。答えも出せる。
でも、それはただ“受け取って並べている”だけで――。
ふと、ページをめくる手が止まる。
机に伏せて笑い合う隣の生徒たち。ひそひそ話に混じる小さな笑い声。
自分だけが、その円の外にいる。
(私は……一体、なんなんだろう)
声を変えれば、老人にも、子どもにも、どんな役柄にもなれる。
けれど“白石音羽”としての自分は、何も形がない。
黒板に並ぶ文字を見つめながら、胸の奥が少しだけ重く沈んでいく。
(舞台の上でも、私は“誰かの仮面”をかぶってるだけ……)
(素のままの私は……誰にも、必要とされないんじゃ……)
かすかなざわめきの中で、ノートの文字が少しにじんで見えた。
放課後の演劇部部室。
今日は発声練習のあと、即興芝居の時間になっていた。
「じゃあ、テーマは“お化け屋敷”で!」
ひのりが元気よくお題を出すと、音羽はすっと前に出る。
「……我こそは、恐怖の亡霊」
低く響く老人の声。
次の瞬間には、甲高い少女の声で「きゃー! でたぁー!」と切り替える。
さらに無邪気な子どもの声で「オバケなんて怖くないもん!」と畳みかける。
部室は一瞬静まり――次に笑いと拍手で弾けた。
「すごっ!」「また別人になってるー!」
紗里が笑いながら背中を叩く。
「ほんっと、何役でもいけるな! 音羽、マジで反則級!」
「……声なら、いくらでも変えられる」
音羽は淡々と答える。
そこに、りんかが首をかしげながら口を開いた。
「でもさー……音羽ちゃんってさ、普段はどんな子なの?」
一瞬、空気が止まった。
「え?」とひのりも乗っかる。
「そうそう! 舞台だと七変化で超すごいけど、普段の音羽ちゃんは? 好きなこととか、得意なこととか!」
視線が一斉に集まり、音羽はわずかに目を伏せる。
(普段の私……?)
教室で一人、クラシックを聴いて過ごす自分。
言葉に詰まり、喉がきゅっと塞がる。
「……」
答えられない沈黙。
けれど、無理に笑って声を変えた。
「……“普段の私”なんて、存在すると思う?」
低い声。冗談のように見せかけたけれど、瞳はどこか遠かった。
部室の空気が、一瞬だけ揺らいだ。
沈黙の後、音羽は小さく息を吸った。
「……私、小さい頃、児童劇団にいた」
部員たちの目がぱっと開かれる。
「えっ、そうだったの!?」ひのりが思わず身を乗り出す。
音羽は膝の上で指を組みながら、淡々と続けた。
「でも……合わなかった。元気に大声で挨拶とか、周りと足並み揃えて歌うのとか……。どうしても“私”には馴染まなかった」
声のトーンが少し沈む。
「だからすぐにやめた。でも……何かを演じるのは、やっぱり好きで。家では台本を勝手に作って、一人で何役もやって……」
少し間を置いて、表情を変えずに言った。
「小学校でも、中学でも……突然一人で“お芝居”始めちゃって。『変な子』って言われて……笑われた」
部室に小さな沈黙が落ちる。
りんかも紗里も、どう言えばいいか分からず視線をそらす。
――その空気を破ったのは、ひのりだった。
「……私も、同じだよ」
みんなの目がひのりに集まる。
ひのりは少し照れ笑いを浮かべながら言った。
「私もさ、教室でいきなり演技しちゃったり、国語の時間に役になりきって音読しちゃったりして……めっちゃ変な子扱いされてた」
「ひのり先輩……」音羽がわずかに目を丸くする。
「でもさ、それってさ……“好き”だからやっちゃうんだよね? 誰かに笑われても、演じてるときだけは自分でいられるっていうか」
ひのりの声は明るく、それでいて真剣だった。
音羽の胸に、小さな波紋が広がる。
(……同じ、だったんだ)
音羽の話を黙って聞いていた唯香が、ふっと目を伏せてから口を開いた。
「……私はね、子どもの頃、子役としていろんな舞台やドラマに出てきたの」
部員たちは思わず身を乗り出す。唯香は穏やかに続けた。
「でもそれは、“大人が決めた役”をただやらされるだけだった。私自身の気持ちなんて関係なく、台本の通りに笑って、泣いて……。周りからは褒められても、私はずっと、苦しかった」
音羽が小さく目を見開く。
「だから……演技は私にとって“檻”みたいなものだった。でも、この演劇部に入って――初めて、“自分のために”演じることができた。ここでは失敗してもいいし、泣いてもいい。仲間と一緒に、自分らしく演じていい」
唯香はまっすぐ音羽を見つめる。
「音羽ちゃん。あなたが一人で演じ続けてきたのは、誰に強制されたものでもなく、自分が好きで選んだ表現。……それはとても立派なことだと思うわ」
音羽の胸に、じんわりと熱が広がる。
(……立派、って……言われたの、初めてかもしれない)
ひのりがにこっと笑って、肩をぽんと叩く。
「ね? だからもう“変な子”なんかじゃないよ。音羽ちゃんの演技は、この舞風演劇部に絶対必要だって!」
音羽は小さく瞬きをして、視線を落とす。
そしてほんの少し、口元が緩んだ。
唯香の言葉で場が少し柔らかくなった。
音羽は俯いたまま、でも耳だけはしっかりと先輩たちの声を拾っていた。
「わ、私も……」
みこが両手を胸の前でぎゅっと握る。
「最初、人前に出るの怖くて……でも、舞台に立つと不思議と“できる”って思えたんです。だから音羽ちゃんも……怖くても大丈夫。私たち、一緒にいますから」
「そ、そうそう!」まひるも慌てて言葉をつなぐ。
「私なんて運動全然ダメだし、練習じゃ足引っ張ってばっかりで……。でも衣装でみんなを支えられるって思えたら、ちょっとだけ自信持てたんです! だから……音羽ちゃんも、声で部活を支えてるんですよ!」
紗里は腕を組み、にかっと笑う。
「てかさー! あんたの七変化、マジでカッコよかったから! あれ一発で観客持ってけるって! 自信持っていいって!」
音羽は少し驚いた顔をした。
(……“自信を持て”なんて、言われたことなかった)
七海が冷静に補足するように口を開く。
「演劇は“自分を出す場所”でもあるわ。仮面を被ってもいい。仮面を外してもいい。大事なのは、そこであなたが何を伝えたいか。……音羽、あなたはそれを持っている」
沈黙。
音羽は視線を落とし、手のひらをぎゅっと握った。
そして――小さな声で。
「……ありがとう」
それは七変化のどの声でもなかった。
ほんの少し震えて、けれど確かに「音羽自身の声」だった。
ひのりが思わず目を丸くして笑顔を弾けさせる。
「わっ! 今の、“素の音羽ちゃん”だ! なんか新鮮!」
「おおっ、笑った笑った! 記念日だぞー!」紗里が大げさに騒ぎ、みことまひるもつられて笑う。
音羽は頬を赤らめ、うつむきながらも――小さく口角を上げた。
(……こんなふうに、笑ってもいいんだ)
音羽は一度言葉を切り、少し考えるように目を伏せた。
そして、わずかに頬を赤らめながら続ける。
「……それに、中学のときなんて……休み時間に突然、机の上に立って“王の演説”を始めちゃったことがある」
「ぶっ……!?」紗里が吹き出す。
「教室で!? しかも机の上で!?」
音羽は肩をすくめる。
「気づいたら……勝手に体が動いてた。両手を広げて、“この国の未来は我らが作るのだ!”って……」
「ひゃーっ! 絶対ウケたでしょそれ!」ひのりが大笑い。
「……いや、逆。みんな黙って……“なにやってんのコイツ”って空気だった」
音羽は淡々と言いながらも、耳の先まで赤くなっていた。
そして、少し間を置いて小さく付け加える。
「……あと、図書室で小説を朗読してたら……途中から本の中の登場人物全部を演じ分けちゃって……司書さんに“お芝居は禁止です”って注意された」
「ぶはっ!!」紗里が椅子から転げ落ちそうになって笑う。
「お芝居禁止って張り紙レベルじゃん!」
「えぇぇ〜! 図書室で!? しかも全部演じ分け!?」ひのりが腹を抱える。
「私それ見たかったー!」
音羽は耳まで真っ赤にして目を逸らす。
「……今思えば、ただの痛い子だった」
「で、でもそれ、すごくない!?」まひるが前のめりになる。
「普通、そんな度胸ないよ! むしろカッコいいです!」
「わ、私も……」みこがそっと手を上げる。
「小学校のとき、音読で登場人物になりきりすぎて……“変声期ごっこ”ってからかわれたことあります……。だから、なんか共感します」
「あるある!」紗里が爆笑しながら机を叩く。
「私なんか給食のときに勝手にナレーション始めて、“本日の主菜は〜!”ってやってドン引きされたし!」
すると、りんかもぽんっと手を挙げた。
「いやいや! 黒歴史ならアタシも負けてないって!」
全員が「えっ?」と注目する。
「小学校の時さ、ヒーロー番組にドハマりして……休み時間にいきなり“変身!”って叫んで立ち上がったことあるんだ」
「ちょ、授業中!?」紗里が爆笑する。
「しかもさ、勢い余って椅子ひっくり返して……そのまま保健室行きコース」
りんかは頭をかきながら苦笑い。
「うわぁぁ……」みこが顔を覆う。
「でも……りんかちゃんらしい……」
「先生に“授業中に変身は禁止!”って怒られたの、今でも忘れらんねー!」
部室は大爆笑に包まれる。
「ヒーロー禁止令ってなにそれ!」ひのりが涙目で笑いながら机を叩いた。
みんなが口々に笑いながら黒歴史を告白していく。
七海が苦笑混じりに呟く。
「……案外、みんな似たような過去を持ってるのね」
唯香が優しく微笑み、音羽に向き直る。
「でも、それって“本気で演じた証拠”よ。人に笑われても、自分の中に熱があるからやっちゃうの。……それは、誇れること」
その言葉に、音羽は少し目を瞬かせた。
そして――ふっと、口元に笑みを浮かべる。
「……今思うと……あれ、完全に黒歴史ね」
「おーっ! 音羽ちゃんが笑ったー!」ひのりが指をさしてはしゃぐ。
「レアだぞ! 超かわいい!」
「ちょ、やめて……」音羽は慌てて目を逸らす。
けれど、その頬はほんのり赤く、笑みは消えなかった。
部室は笑い声に包まれていた。
音羽が初めて“黒歴史”を笑って語り、みんなと同じ輪の中にいた。
(……私も、ここでなら……笑っていられる)
七海はみんなの笑い声を聞きながら、ふっと口を開いた。
「黒歴史だろうと何だろうと――それも“表現の種”よ。恥ずかしい過去があったからこそ、今こうして舞台に立てるんだと思う」
音羽は驚いたように顔を上げ、七変化の仮面の下の顔を出すように、ほんの少し照れくさそうに笑った。
続く。