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舞風学園演劇部 2年編 大会への道  作者: 舞風堂
第一章 後輩入部、8人へ
6/8

第六幕 仮面の下の音羽

 朝の通学電車は、始業前の静けさと喧騒が入り交じっていた。

 吊り革につかまる人、スマホを睨む人、ぼんやり窓の外を見つめる人。ざわざわとした雑音の中、音羽はイヤホンを耳に差し込み、クラシックの旋律を小さく流していた。


 ピアノとヴァイオリンが交差する穏やかな旋律が、車内の騒がしさを遠ざける。

 音羽は窓際の席に腰を下ろし、視線を外に向ける。

 通り過ぎる住宅街、コンビニの前で笑いながら朝食をかき込む学生、赤信号に止まる自転車。


(……今日も、同じ景色)


 小さく息を吐く。

 クラシックを聴くと落ち着くけれど、それは同時に「外の世界に混ざれない」証のようにも感じていた。


 音羽は鞄に手を伸ばし、少し古びた台本を取り出しかけて、やめた。

 人目のある場所で声を出すのは苦手だ。誰かに「何やってるの?」と視線を向けられるのが怖い。

 代わりに指先で台本の端をなぞり、目だけでセリフを追った。


(声なら……いくらでも変えられるのに)


 それは彼女の強みであり、同時に“隠れ蓑”でもあった。

 七変化の演技と呼ばれても、それは「本当の自分」を覆い隠すための仮面。

 人前では“声”を変えられるのに、“自分”を出すことはできない。


 ――ふと、視線が動いた。


 隣の車両、窓越しに座っているのは唯香先輩だった。

 きちんとアイロンのかかった制服に、シンプルで上品な髪留め。

 膝の上には分厚い参考書とノート。姿勢を崩さず、真剣にページを追う横顔。


(……やっぱり、すごい人だ)


 周囲の社会人や高校生が、ちらちらと唯香を見ているのが分かる。

「芸能人かな」「モデル?」と囁く声が耳に入る。

 それでも唯香は気づかないふりで、ひたすらに勉強を続けていた。


 音羽は、無意識にイヤホンの音量を少し上げた。

 自分とはあまりに違う存在。特別で、遠い人。

 それなのに、なぜか同じ電車に揺られている。


 音羽は小さく息を吐き、イヤホンの音量を上げた。

 唯香先輩は一度だけ顔を上げ、こちらに気づく。

 音羽は慌てて目を逸らし、軽く会釈した。


 唯香先輩も、ほんの少し顎を下げるように返してくれる。

 それだけ。言葉はない。


(……恐れ多い。私なんかが声をかけるなんて)


 胸の奥でそう呟いて、目を閉じた。

 声なら七変化できるのに、本当の自分の言葉は出てこない。

 電車の振動に揺られながら、音羽は唇を結んだまま座り続けた。


(舞風に入れば、少しは変われると思ったのに)


 車窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。

 無表情で、影を落とした瞳。

 クラシックの旋律は流れ続けるのに、胸の奥は重たいままだった。


 ――電車は、舞風学園の最寄り駅、風丘駅に滑り込んだ。


 音羽は立ち上がり、鞄を抱え直す。

 ホームに降りると、朝の空気が少し温かった。

 校門へ向かう道を歩く生徒たちの群れ。笑い声、話し声。

 自分もその中に混ざりながら、音羽は一歩後ろを歩いていた。


 教室。

 二年生と一年生が混ざったざわめきの中、音羽は窓際の席に座っていた。


 黒板にチョークの音が響き、教師の声が規則正しく流れる。

 ノートにペン先を走らせると、数式や歴史の年号はきちんと整列していく。


(……頭には、入る)


 書かれたことは理解できる。答えも出せる。

 でも、それはただ“受け取って並べている”だけで――。


 ふと、ページをめくる手が止まる。

 机に伏せて笑い合う隣の生徒たち。ひそひそ話に混じる小さな笑い声。

 自分だけが、その円の外にいる。


(私は……一体、なんなんだろう)


 声を変えれば、老人にも、子どもにも、どんな役柄にもなれる。

 けれど“白石音羽”としての自分は、何も形がない。


 黒板に並ぶ文字を見つめながら、胸の奥が少しだけ重く沈んでいく。


(舞台の上でも、私は“誰かの仮面”をかぶってるだけ……)

(素のままの私は……誰にも、必要とされないんじゃ……)


 かすかなざわめきの中で、ノートの文字が少しにじんで見えた。


 放課後の演劇部部室。

 今日は発声練習のあと、即興芝居の時間になっていた。


「じゃあ、テーマは“お化け屋敷”で!」

 ひのりが元気よくお題を出すと、音羽はすっと前に出る。


「……我こそは、恐怖の亡霊」

 低く響く老人の声。

 次の瞬間には、甲高い少女の声で「きゃー! でたぁー!」と切り替える。

 さらに無邪気な子どもの声で「オバケなんて怖くないもん!」と畳みかける。

 

 部室は一瞬静まり――次に笑いと拍手で弾けた。

「すごっ!」「また別人になってるー!」


 紗里が笑いながら背中を叩く。

「ほんっと、何役でもいけるな! 音羽、マジで反則級!」

「……声なら、いくらでも変えられる」

 音羽は淡々と答える。


 そこに、りんかが首をかしげながら口を開いた。

「でもさー……音羽ちゃんってさ、普段はどんな子なの?」


 一瞬、空気が止まった。

「え?」とひのりも乗っかる。

「そうそう! 舞台だと七変化で超すごいけど、普段の音羽ちゃんは? 好きなこととか、得意なこととか!」


 視線が一斉に集まり、音羽はわずかに目を伏せる。


(普段の私……?)

 教室で一人、クラシックを聴いて過ごす自分。

 言葉に詰まり、喉がきゅっと塞がる。


「……」


 答えられない沈黙。

 けれど、無理に笑って声を変えた。


「……“普段の私”なんて、存在すると思う?」

 低い声。冗談のように見せかけたけれど、瞳はどこか遠かった。


 部室の空気が、一瞬だけ揺らいだ。


 沈黙の後、音羽は小さく息を吸った。

「……私、小さい頃、児童劇団にいた」


 部員たちの目がぱっと開かれる。

「えっ、そうだったの!?」ひのりが思わず身を乗り出す。


 音羽は膝の上で指を組みながら、淡々と続けた。

「でも……合わなかった。元気に大声で挨拶とか、周りと足並み揃えて歌うのとか……。どうしても“私”には馴染まなかった」


 声のトーンが少し沈む。

「だからすぐにやめた。でも……何かを演じるのは、やっぱり好きで。家では台本を勝手に作って、一人で何役もやって……」


 少し間を置いて、表情を変えずに言った。

「小学校でも、中学でも……突然一人で“お芝居”始めちゃって。『変な子』って言われて……笑われた」


 部室に小さな沈黙が落ちる。

 りんかも紗里も、どう言えばいいか分からず視線をそらす。


 ――その空気を破ったのは、ひのりだった。

「……私も、同じだよ」


 みんなの目がひのりに集まる。

 ひのりは少し照れ笑いを浮かべながら言った。

「私もさ、教室でいきなり演技しちゃったり、国語の時間に役になりきって音読しちゃったりして……めっちゃ変な子扱いされてた」


「ひのり先輩……」音羽がわずかに目を丸くする。


「でもさ、それってさ……“好き”だからやっちゃうんだよね? 誰かに笑われても、演じてるときだけは自分でいられるっていうか」

 ひのりの声は明るく、それでいて真剣だった。


 音羽の胸に、小さな波紋が広がる。

(……同じ、だったんだ)


 音羽の話を黙って聞いていた唯香が、ふっと目を伏せてから口を開いた。


「……私はね、子どもの頃、子役としていろんな舞台やドラマに出てきたの」


 部員たちは思わず身を乗り出す。唯香は穏やかに続けた。

「でもそれは、“大人が決めた役”をただやらされるだけだった。私自身の気持ちなんて関係なく、台本の通りに笑って、泣いて……。周りからは褒められても、私はずっと、苦しかった」


 音羽が小さく目を見開く。


「だから……演技は私にとって“檻”みたいなものだった。でも、この演劇部に入って――初めて、“自分のために”演じることができた。ここでは失敗してもいいし、泣いてもいい。仲間と一緒に、自分らしく演じていい」


 唯香はまっすぐ音羽を見つめる。

「音羽ちゃん。あなたが一人で演じ続けてきたのは、誰に強制されたものでもなく、自分が好きで選んだ表現。……それはとても立派なことだと思うわ」


 音羽の胸に、じんわりと熱が広がる。

(……立派、って……言われたの、初めてかもしれない)


 ひのりがにこっと笑って、肩をぽんと叩く。

「ね? だからもう“変な子”なんかじゃないよ。音羽ちゃんの演技は、この舞風演劇部に絶対必要だって!」


 音羽は小さく瞬きをして、視線を落とす。

 そしてほんの少し、口元が緩んだ。


 唯香の言葉で場が少し柔らかくなった。

 音羽は俯いたまま、でも耳だけはしっかりと先輩たちの声を拾っていた。


「わ、私も……」

 みこが両手を胸の前でぎゅっと握る。

「最初、人前に出るの怖くて……でも、舞台に立つと不思議と“できる”って思えたんです。だから音羽ちゃんも……怖くても大丈夫。私たち、一緒にいますから」


「そ、そうそう!」まひるも慌てて言葉をつなぐ。

「私なんて運動全然ダメだし、練習じゃ足引っ張ってばっかりで……。でも衣装でみんなを支えられるって思えたら、ちょっとだけ自信持てたんです! だから……音羽ちゃんも、声で部活を支えてるんですよ!」


 紗里は腕を組み、にかっと笑う。

「てかさー! あんたの七変化、マジでカッコよかったから! あれ一発で観客持ってけるって! 自信持っていいって!」


 音羽は少し驚いた顔をした。

(……“自信を持て”なんて、言われたことなかった)


 七海が冷静に補足するように口を開く。

「演劇は“自分を出す場所”でもあるわ。仮面を被ってもいい。仮面を外してもいい。大事なのは、そこであなたが何を伝えたいか。……音羽、あなたはそれを持っている」


 沈黙。

 音羽は視線を落とし、手のひらをぎゅっと握った。

そして――小さな声で。


「……ありがとう」


 それは七変化のどの声でもなかった。

 ほんの少し震えて、けれど確かに「音羽自身の声」だった。


 ひのりが思わず目を丸くして笑顔を弾けさせる。

「わっ! 今の、“素の音羽ちゃん”だ! なんか新鮮!」


「おおっ、笑った笑った! 記念日だぞー!」紗里が大げさに騒ぎ、みことまひるもつられて笑う。


 音羽は頬を赤らめ、うつむきながらも――小さく口角を上げた。

(……こんなふうに、笑ってもいいんだ)



 音羽は一度言葉を切り、少し考えるように目を伏せた。

 そして、わずかに頬を赤らめながら続ける。


「……それに、中学のときなんて……休み時間に突然、机の上に立って“王の演説”を始めちゃったことがある」


「ぶっ……!?」紗里が吹き出す。

「教室で!? しかも机の上で!?」


 音羽は肩をすくめる。

「気づいたら……勝手に体が動いてた。両手を広げて、“この国の未来は我らが作るのだ!”って……」


「ひゃーっ! 絶対ウケたでしょそれ!」ひのりが大笑い。


「……いや、逆。みんな黙って……“なにやってんのコイツ”って空気だった」

音羽は淡々と言いながらも、耳の先まで赤くなっていた。


 そして、少し間を置いて小さく付け加える。

「……あと、図書室で小説を朗読してたら……途中から本の中の登場人物全部を演じ分けちゃって……司書さんに“お芝居は禁止です”って注意された」


「ぶはっ!!」紗里が椅子から転げ落ちそうになって笑う。

「お芝居禁止って張り紙レベルじゃん!」


「えぇぇ〜! 図書室で!? しかも全部演じ分け!?」ひのりが腹を抱える。

「私それ見たかったー!」


 音羽は耳まで真っ赤にして目を逸らす。

「……今思えば、ただの痛い子だった」



「で、でもそれ、すごくない!?」まひるが前のめりになる。

「普通、そんな度胸ないよ! むしろカッコいいです!」


「わ、私も……」みこがそっと手を上げる。

「小学校のとき、音読で登場人物になりきりすぎて……“変声期ごっこ”ってからかわれたことあります……。だから、なんか共感します」


「あるある!」紗里が爆笑しながら机を叩く。

「私なんか給食のときに勝手にナレーション始めて、“本日の主菜は〜!”ってやってドン引きされたし!」


 すると、りんかもぽんっと手を挙げた。

「いやいや! 黒歴史ならアタシも負けてないって!」


 全員が「えっ?」と注目する。


「小学校の時さ、ヒーロー番組にドハマりして……休み時間にいきなり“変身!”って叫んで立ち上がったことあるんだ」


「ちょ、授業中!?」紗里が爆笑する。


「しかもさ、勢い余って椅子ひっくり返して……そのまま保健室行きコース」

 りんかは頭をかきながら苦笑い。


「うわぁぁ……」みこが顔を覆う。

「でも……りんかちゃんらしい……」


「先生に“授業中に変身は禁止!”って怒られたの、今でも忘れらんねー!」


 部室は大爆笑に包まれる。

「ヒーロー禁止令ってなにそれ!」ひのりが涙目で笑いながら机を叩いた。


 みんなが口々に笑いながら黒歴史を告白していく。


 七海が苦笑混じりに呟く。

「……案外、みんな似たような過去を持ってるのね」


 唯香が優しく微笑み、音羽に向き直る。

「でも、それって“本気で演じた証拠”よ。人に笑われても、自分の中に熱があるからやっちゃうの。……それは、誇れること」


 その言葉に、音羽は少し目を瞬かせた。

 そして――ふっと、口元に笑みを浮かべる。


「……今思うと……あれ、完全に黒歴史ね」


「おーっ! 音羽ちゃんが笑ったー!」ひのりが指をさしてはしゃぐ。

「レアだぞ! 超かわいい!」


「ちょ、やめて……」音羽は慌てて目を逸らす。

けれど、その頬はほんのり赤く、笑みは消えなかった。


 部室は笑い声に包まれていた。

 音羽が初めて“黒歴史”を笑って語り、みんなと同じ輪の中にいた。


(……私も、ここでなら……笑っていられる)


 七海はみんなの笑い声を聞きながら、ふっと口を開いた。

「黒歴史だろうと何だろうと――それも“表現の種”よ。恥ずかしい過去があったからこそ、今こうして舞台に立てるんだと思う」


 音羽は驚いたように顔を上げ、七変化の仮面の下の顔を出すように、ほんの少し照れくさそうに笑った。


続く。


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