第二十幕 九人のキャンプ
バスを降りた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
十一月の山あい。街よりも一段冷えた空気に、九人は思わず息を吸い込む。
「……寒っ」
りんかが肩をすくめる。
視界の先には、色づいた木々に囲まれたキャンプ場。
木製のロッジとテントサイト、奥には細い川がきらきらと光っている。
「着いたね」
ひのりがリュックを背負い直して、振り返る。
「……ほんとに来ちゃったんだ」
みこが小さく呟いた。
そのとき、りんかが腕を組んで大げさに言った。
「でさ。改めて聞くけど――
なんで演劇部でキャンプなのさ?」
全員が一瞬、そちらを見る。
「普通さ、合宿とかさ、稽古とかじゃない?
なんで焚き火とか飯とか自然満喫コース?」
紗里が吹き出す。
「いいじゃん。楽しそうで」
「いや、楽しいのはいいんスけど!」
りんかは続ける。
「演劇どこ行ったの?って話で!」
少し間を置いて、ひのりがにやっと笑った。
「だってさ、キャンプのアニメ、あるじゃん?」
「……あるわね」
七海が即座に反応する。
「あれみたいに、自然の中でまったりして、
ご飯作って、星見て……
そういうので親睦深めるやつ!」
ひのりは胸を張る。
「今回は“そういう回”なんだよ」
一瞬の沈黙。
唯香が呆れたようにため息をつく。
「……あなた、それを堂々と言うのね」
「いいじゃん。たまには」
ひのりは悪びれない。
りんかはぽかんとしたあと、肩を落とした。
「……なるほど。
親睦のためのキャンプ回。
ジャンル変わってる気しかしないけど」
「でも……」
まひるが小さく口を開く。
「……みんなで……外で過ごすの……久しぶり……」
音羽も頷く。
「部室と舞台ばかりでしたし……
こういう時間も、必要かもしれません」
みこはリュックの紐を握りながら、そっと言った。
「……焚き火……ちょっと……好き……」
その言葉に、空気がふっと和らぐ。
「ほら、賛成派も多い」
ひのりが笑う。
アリスは周囲の山を見渡しながら、静かに言った。
「……イギリスでも、こういう場所はあるけど……
みんなで来るのは、初めて」
少しだけ、声が柔らかい。
「悪くないわ」
その言葉に、ひのりは嬉しそうに頷いた。
「でしょ。
今日は稽古も大会も忘れてさ」
ひのりは九人を見回す。
「ただの“九人の時間”を過ごそう」
風が吹いて、落ち葉が足元を転がった。
紗里が両手を伸ばして、大きく息を吸う。
「はーっ、空気うま!
これだけで来た価値あるわ」
「……写真、撮ります?」
音羽が控えめにスマホを取り出す。
「いいね」
七海が即答する。
「記録は大事」
自然と九人が集まり、
キャンプ場の看板を背に並ぶ。
「はい、チーズ」
シャッター音。
画面の中には、
リュック姿で少し疲れて、でもどこか楽しそうな九人が写っていた。
「……なんか、遠足みたいだな」
りんかが画面を覗き込みながら言う。
「高校生らしくて、いいじゃん」
紗里が笑う。
ひのりはその様子を見て、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じていた。
舞台じゃない。
照明も拍手もない。
でも――
こうして並んで、同じ空気を吸っている時間も、
きっと“舞風”の大事な一幕だ。
「よし」
ひのりが手を叩く。
「まずは荷物置いて――
それから設営!」
「結局、働かされるんスね」
りんかがぼやきつつも、歩き出す。
九人は笑いながら、
秋色の森に囲まれたキャンプ場の奥へと進んでいった。
――ここから始まるのは、
焚き火とご飯と、たくさんの“話”の時間。
静かな自然の中で、ゆっくりと幕を開けた。
ロッジの前に荷物を置くと、ひのりは手を叩いた。
「よし、じゃあ役割分担しよっか」
地面に簡単な配置図を描きながら、指を動かす。
「テントとタープ張り、火起こし準備、荷物整理と食材チェック。
三つに分かれよ」
少し考えてから顔を上げる。
「――私とりんかと音羽で、テントいくね」
「了解っス」
りんかが即答する。
「……私も、大丈夫です」
音羽が小さく頷く。
「七海と、まひると、唯香は?」
ひのりが振る。
「火と周りの準備ね」
七海が自然に引き取る。
「……刃物とか……扱います……」
まひるも控えめに続く。
「力仕事もあるでしょうし」
唯香が腕まくりする。
「じゃあ残りは――」
ひのりが振り返る。
「私とアリスで、食材とか荷物の整理?」
紗里が言う。
「……うん……手伝う……」
みこが小さく手を挙げる。
アリスは少しだけ迷ってから頷いた。
「……任せて」
「決まりだね」
ひのりが笑う。
「じゃ、解散!」
それぞれが荷物を手に取り、散っていく。
⸻
ひのり、りんか、音羽のチーム。
芝生の一角で、テント袋を広げる。
「よーし、テント張るぞー!」
りんかが元気よく言う。
「説明書……あります」
音羽が袋から紙を取り出す。
「大丈夫大丈夫、見なくても何とかなるって!」
りんかがポールを手に取る。
「……そう言って失敗するやつだよ、それ」
ひのりが即ツッコミ。
「え、ひのり先輩、テント経験者なんスか?」
「小学生のとき、家族で一回だけ」
「……一回だけ」
三人で説明書を覗き込みながら、あーでもない、こーでもない。
「これ逆じゃない?」
「いや、ここ通すんだって」
「……たぶん」
ポールが思うように入らず、少し歪む。
「なんか、変な形になってないっスか」
りんかが首をかしげる。
「……最初は、こういうものです」
音羽がフォローする。
「いや、これは……」
ひのりが笑いを堪えながら言う。
「ちょっと怪しい」
三人で押したり引いたりして、ようやく形が整う。
「おお、立った!」
りんかが両手を上げる。
「……ちゃんとテントです」
音羽も少し嬉しそう。
「よし、合格」
ひのりが親指を立てた。
少し汗をかきながらも、笑顔が浮かぶ。
「なんかさ」
りんかが言う。
「舞台より必死になってる気しない?」
「言わないで」
ひのりが苦笑する。
「……でも、悪くないですね」
音羽がぽつり。
「みんなで、同じ作業するの」
ひのりはそれを聞いて、少しだけ頷いた。
⸻
七海・まひる・唯香チームは火起こし準備をすることになる。
ロッジ横で、薪と道具を並べる。
「火は慎重にね」
七海が落ち着いた声で言う。
「……刃物、私がやります……」
まひるが小さなナイフを手に取る。
「無理しないで」
唯香がすぐ横につく。
まひるは黙々と薪を細く割っていく。
その手つきは、衣装作りのときと同じくらい正確だ。
「相変わらず、器用ね」
唯香が感心する。
「……慣れてるだけです……」
まひるは視線を落としたまま答える。
七海は周囲を見渡しながら、火床の位置を決める。
「風向きもいいし、ここでいけそう」
「さすが」
唯香が頷く。
少しだけ間が空いてから、七海がぽつりと言う。
「こういうの、落ち着くわね」
「舞台と違って、結果がすぐ出る」
唯香が言う。
「火がつけば成功、つかなきゃ失敗」
「……わかりやすいですね……」
まひるが小さく笑う。
パチ、と小枝が折れる音。
三人の間に、静かなリズムが流れていた。
⸻
紗里・みこ・アリスチームは荷物と食材を用意する。
ロッジのウッドデッキで、クーラーボックスと袋を広げる。
「よし、まずは食材チェックね」
紗里が腕まくりする。
「……野菜……いっぱい……」
みこが覗き込む。
「肉も、ちゃんとある」
アリスが中を確認する。
袋を開けながら、紗里が言う。
「役割的に、あたしがまとめ役でいい?」
「……うん……」
みこが頷く。
「……任せる」
アリスも短く言う。
紗里は少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃ、任されました」
みこは黙々と野菜を種類ごとに分けていく。
アリスは飲み物を並べ、数を数える。
「……几帳面ね」
紗里が言うと、
「……こういうのは……嫌いじゃない」
アリスは小さく答える。
少し間があって、みこがぽつりと呟く。
「……三人で……作業するの……初めて……」
「そうだね」
紗里が頷く。
「でも、悪くないでしょ?」
アリスは一瞬考えてから、静かに言った。
「……静かで、やりやすい」
みこが、少しだけ安心したように微笑む。
袋が片付き、食材が整列する。
「よし、こんなもんかな」
紗里が手を叩く。
「なんか、ちゃんと“キャンプ”してる感じするね」
「……うん……」
みこが小さく頷く。
アリスは並んだ食材を見て、ぽつりと。
「……みんなで作るなら、失敗しても……いい気がする」
紗里は、その言葉に少し驚いてから、にっと笑った。
「それ、いいね」
⸻
しばらくして、ひのりの声が響く。
「そっちどうー?」
「テント完成だよ!」
りんかが手を振る。
「火の準備、OK」
七海も応える。
「食材、整理終わったよ!」
紗里が叫ぶ。
それぞれの場所から返る声。
ひのりはそれを聞いて、満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ次は――
いよいよ“火”だね」
九人は、少しずつ中央へ集まり始める。
それぞれの場所で動いていた時間が、
また一つの輪に戻っていく。
火が起きた。
ぱち、ぱち、と乾いた音を立てながら、オレンジ色の炎がゆっくりと広がっていく。
「おお……ついた……」
みこが小さく声を漏らす。
「よし、じゃあ焼くよー!」
紗里がトングを構え、網の上に肉を並べる。
じゅっと音がして、すぐに香ばしい匂いが立ちのぼった。
「……これは反則っスね」
りんかが鼻をひくひくさせる。
「腹減りすぎて倒れそう」
「野菜もいきましょう」
唯香が手際よく並べる。
七海は火加減を見ながら言った。
「焦らずね。強すぎると外だけ焼けちゃう」
まひるは少し離れたところで、全体を見守るように座っている。
「……いい感じです……」
ひのりは、待ちきれない様子で網の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、もう食べていい?」
「まだ」
七海が即答する。
「えー」
「ひのりは待つ練習しなさい」
「……はい」
少しして、紗里が声を上げた。
「はい、焼けたよー!」
一斉に動く。
紙皿に肉と野菜が配られ、それぞれが焚き火の周りに腰を下ろす。
ひのりは一口食べた瞬間、目を見開いた。
「……っ!」
「どう?」
りんかが身を乗り出す。
ひのりは、なぜか背筋を伸ばして言った。
「えー、本日のメニュー、炭火焼きお肉ですが……
外はカリッと、中はジューシー。
噛んだ瞬間に肉の旨みが口いっぱいに広がって――」
「食レポ始まった!」
紗里が吹き出す。
「……ひのり先輩、顔が真剣です」
音羽が冷静に言う。
「これは……優勝です」
ひのりは満足げに親指を立てた。
「何の大会よ」
唯香が苦笑する。
みこも、小さく一口。
「……おいしい……」
目を細めて、ぽつり。
「……あったかい……」
その隣で、アリスが少し戸惑いながら肉を見つめていた。
「……こういうの、初めて」
「キャンプ?」
ひのりが聞く。
「ええ」
アリスは頷く。
「家族で外で火を囲んで……みんなで同じものを食べるの」
一口、そっと口に運ぶ。
「……」
一瞬、言葉が止まってから、小さく息を吐いた。
「……悪くないわ」
「でしょ?」
紗里が笑う。
「キャンプの魔法だよ」
アリスは焚き火を見つめながら言った。
「……舞台の緊張とも、家の食事とも違う」
「ただ……ここにいる感じ」
ひのりはそれを聞いて、少しだけ嬉しそうに笑った。
⸻
食事が一段落すると、自然と焚き火を囲む形になる。
炎が揺れて、九人の顔を順番に照らしていく。
「なんかさ」
りんかが薪を一本くべながら言う。
「こうしてると、“合宿”って感じしない?」
「キャンプだけどね」
七海が突っ込む。
「細かいことはいいっス」
音羽が炎を見つめながら、ぽつりと。
「……火って、不思議ですね」
「見てると……落ち着く」
「……うん……」
みこも頷く。
「……揺れてるのに……静か……」
唯香は少し離れたところから言った。
「こういう時間、嫌いじゃないわ」
「何かを“演じなくていい”から」
「評価も、結果もない」
七海が続ける。
「ただ、今ここにいるだけ」
まひるは、膝に手を置いたまま静かに言った。
「……それでも……ちゃんと……記憶に残ります……」
誰も否定しなかった。
焚き火の音だけが、しばらく続く。
⸻
「……あ」
ひのりがふと思い出したように立ち上がる。
「薪がそろそろ無くなりそうだから取ってくる」
「私も手伝うわ」
アリスがすぐに言った。
ひのりは少し驚いてから頷く。
「じゃ、一緒に行こ」
「気をつけて」
七海が背中に声をかける。
二人は懐中電灯を持って、ロッジの方へ歩き出した。
⸻
夜のキャンプ場は、昼とはまるで違う顔をしている。
木々の間を風が抜け、遠くで虫の声がする。
並んで歩きながら、ひのりが言った。
「さっきのアリスちゃん、楽しそうだったね」
「……そう見えた?」
「うん。ちゃんと笑ってた」
アリスは一瞬だけ黙ってから、小さく頷いた。
「……楽しかったわ」
「たぶん……本当に」
薪の保管場所が見えてきた、その手前で――
アリスが足を止めた。
「……ひのり」
「ん?」
焚き火の明かりはもう届かない。
懐中電灯の白い光の中で、アリスはまっすぐひのりを見る。
「……大事な話があるの」
声は静かだったが、はっきりしていた。
ひのりは、少しだけ表情を引き締める。
「……うん」
アリスは、すぐには続けなかった。
夜の空気の中で、言葉を探すように、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「……ここじゃ、まだ言わない」
「でも……ちゃんと話したい」
ひのりは小さく息を吸って、頷いた。
「わかった」
「戻ったら……聞くよ」
アリスは、それを聞いてほんの少しだけ安心したように目を細めた。
「……ありがとう」
二人はそのまま、何も言わずに歩き出す。
焚き火の明かりの向こうで、
九人の時間は、まだ続いている。
けれどひのりとアリスの間にだけ、静かに“次の物語”の影が落ちていた。
翌朝。
山の向こうから差し込む光が、ロッジの窓を淡く染めていた。
鳥の声と、ひんやりした空気。
「……朝だ」
りんかが布団の中で寝返りを打ちながら呟く。
「よく寝た……」
紗里が大きく伸びをする。
「……静か……」
みこはまだ少し眠そうだ。
外に出ると、昨日までの賑やかさが嘘のように、キャンプ場は穏やかだった。
焚き火の跡から、うっすらと煙の匂いが残っている。
「いいキャンプだったね」
七海が朝の空気を吸い込みながら言う。
「うん」
唯香も頷く。
「久しぶりに、何も考えずに過ごせた」
「衣装も、舞台もない日……」
まひるが小さく笑う。
「……大事ですね……」
音羽はコーヒーを手に、静かに言った。
「……こういう時間があると、また頑張れそうです」
「だな」
りんかが満足そうに笑う。
「正直、めちゃくちゃ楽しかったっス」
紗里がみんなを見回して、にっとする。
「ね。いい思い出できたじゃん」
誰も否定しなかった。
九人の中に、確かに“満足”が広がっていた。
――二人を除いて。
少し離れたところで、ひのりは荷物をまとめながら、ぼんやりと空を見ていた。
その隣で、アリスも黙ってリュックの紐を締めている。
「……ひのり」
アリスが、小さく声をかける。
「なに?」
「昨日の……話」
一瞬だけ、ひのりの手が止まった。
「……うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
周りにみんながいるからでもあるし、
何より――まだ、ちゃんと言葉にできないから。
七海が二人の様子に気づいて、静かに声をかける。
「……帰りのバス、もうすぐ来るわよ」
「うん」
ひのりは頷く。
みんなが集まり、最後にキャンプ場を振り返る。
焚き火を囲んだ場所。
笑った声。
夜の静けさ。
「また来たいね」
紗里が言う。
「……うん……」
みこも小さく頷く。
「次はもっと暖かい時期で」
りんかが笑う。
その中で、ひのりとアリスは一瞬だけ視線を交わした。
言葉はない。
けれど、同じ気持ちだと分かる。
――楽しかった。
――でも、それだけじゃ終われない。
バスが到着し、九人は乗り込む。
紗里とりんかはすぐ目を閉じ、みこは窓の外を眺めて欠伸をした。
後ろの席で、ひのりとアリスは並んで座る。
ひのりは流れる景色を見つめながら思う。
(……いい時間だった)
でも、隣のアリスの張りつめた横顔が、どうしても気になった。
アリスも前を向いたまま、静かに息を整えている。
――温かかった。
でも。
この先に待つ話が、
二人の胸の奥で、もう動き出していた。
バスは、ゆっくりと山道を下りていく。
九人のキャンプは終わった。
心には満足と余韻が残る。
けれど――
ひのりとアリスだけは、
その先の“現実”を、もう見ていた。
続く。




