第88話 魅惑の街(5)
媚薬。
そう言われて、ヒナタはようやく祭祀局長の言葉の意味を理解した。
「あぁ、なるほど。ソレでおねーさんたちと楽しめと。でもその程度じゃ、姉貴に知られても大したダメージはないなぁ」
「え……支障、ないのかい……?」
「ないですよ。事故ってわかるだろうし。あ、でも多少は拗ねると思うんで、甘やかせてデートするくらいのフォローは必要ですからね!」
「それって……一体どうするんだい」
「そりゃあ、遊園地とかショッピングモールとか行って……ってこの国、デートスポットなんてないじゃないですか! ……あぁ、終わりましたね宝珠様」
ご愁傷さまです、と哀れみに満ちた顔で宝珠を見つめるヒナタに、藍飛は顔を引き攣らせた。
忘れてはいけない。
男装して非常にややこしい状況だが、今話題に上がっている“姉貴”というのは目の前にいる“ヒナタ”自身だというのに。
何も言えなくなって口を閉ざす藍飛に小さく笑って、ヒナタはすぅっと大きく息を吸った。
「ラ――――イ!」
いきなり叫んだヒナタに何事かと目を丸くした宝珠たちをよそに、まるで呼びかけに応じるように、しばらくしてからガラリと戸が開く。
「呼んだか」
現れたのは、出て行った時よりもどこか気だるさを帯びた姿のライ。
その野性的な色香に、残っていた妓女たちの目線も思わず釘付けになる。
「ごめん、お楽しみ中だった? おねーさんたちは?」
「寝かせてきた」
「はは! なにそれ、言葉通り?」
ヒナタが楽しげに肩を揺らす。
それからライの登場に惚ける妓女たちを横目に、ヒナタは藍飛に視線を向けた。
「ねぇ藍飛様が今日一緒に過ごす子っているんです?」
「え? いや、特に決まってはいないけど」
「じゃあ、少なからずこのおねーさんはライに任せたほうがいいですよ。……いいんですよね?」
そう言ってヒナタは宝珠に媚薬酒を持ってきた妓女の手を取った。
聞いた話によれば、藍飛はこの始楼館をセカンドハウスとし、前払いで一年契約している太客らしい。
普段は酒と少しの戯れ程度だが、部屋にやって来た妓女と男女の関係を結ぶこともできる。もちろんそれは別料金なのだが、現在のヒナタの懐は大変温かいので、ここで支払ったとしてもなんの問題もない。
(詳細は後で。宝珠様が媚薬を盛られたから、ちょっと二人っきりになりたいの。だからおねーさんたちを引き取ってくれない?)
(あぁ、なるほど。引き取るのは構わねぇけど、ヒナはどうするんだ)
(解毒してくる)
思考会話の会話を早々に切り上げたヒナタは、「手加減してやれよ」と肩を竦めるライを横目に、懐からぽんと二枚の木札を妓女に手渡した。
受け取った妓女は、漆塗りが施された硬木にぎょっとする。
「し、紫符……!?」
「うん。さっきのおねーさんたちと残ってるおねーさんたちと、あと悪いけど今から解毒薬作るから一部屋俺に回してもらえるかな? 釣りは……まあいいや。受け取ってて」
無造作に手渡されたのは、この国で一番高価な貨幣符二枚。
一枚で百万の価値がある紫符にわずかに妓女がたじろぐが、ヒナタはパンと両手を合わせて会話を切り上げた。
「んじゃ、宝珠様は俺と別室に! 藍飛様、寂しいなら誰か置いていきましょうか?」
「え、いや、それは構わないんだけど……カナタ殿。その金……」
「え? 俺の金だから別にいいですよ。気にしなくて」
そういうことじゃなくて、という藍飛の視線は笑顔で封じた。
藍飛は知らないが、この紫符はシャボンソープの手付金として林商会から得た資産だ。
先ほどライが寝かせた妓女二人分と、今残っている妓女二人の合計四名分に加え、部屋一つ分。
釣りも受け取らないのは大盤振る舞いだが、これも羽振りのいい客という印象を残すための先行投資だと思えば安いものだろう。
「んじゃ、ちゃちゃっと解毒行くか。ねぇ誰か案内してくれる? あとは強めの酒を二、三本と、この龍眼酒をもう一本持ってきてくれると助かるな」
「あ……は、はい。ではわたくしが……」
「いや、あんたはこっち」
ヒナタを案内しようとした妓女の肩を、ライがぐっと胸に引き寄せる。
半ば抱きとめられるよう倒れ込む妓女に、羨望にも似た悲鳴が上がった。
片手でそれを受け止めたライは、残っていた妓女たちに目線を向け、口元を緩める。
「……俺と遊ぶ姐さんはいるか?」
「はい! はい! もちろんですわ!」
「碧様、今宵はごめんなさいませ! ライ様、わたくしも!」
即座に手を挙げたのは、ヒナタの色香に最後まで生き残った精鋭妓女ふたり。
全身を高揚させる二人を見て、ヒナタはからかうようライを小突いた。
「めっちゃモテてんじゃん」
「羨ましいだろ。あ、そうだ。悪いが、先にカナタたちを案内してやってくれねぇか?」
ふと立ち止まったライが、一人の妓女の頬をそっと手の甲で撫でる。その瞬間、ぼんっと妓女の顔が一気に赤く染まった。
「わ、わ、わたくしがご案内してまいりますわぁぁぁあぁ!」
「頼む。じゃ、また後でな、カナタ。やりすぎるなよ」
「はは、それはお互い様なー?」
軽快なやりとりでライを見送って、そのまま宝珠に視線を向ける。
(なるほど、こういう時のための布かぁー……)
媚薬の効能が遅いのか早いのかは分からないが、もしもここで宝珠が艶めいた表情でも浮かべていたら、ある意味大惨事だった。主にヒナタが。
顔を隠す布に感謝である。
「んじゃ、行きましょうか。宝珠様」
いつも通りの気楽な声でヒナタは宝珠を呼んだ。
思うところがあるのか、やや渋った様子の宝珠だったが、結局はヒナタに負けて席を立つ。
そうしてこれが、宝珠にとっては生涯忘れることのできない、夜の始まりでもあった。




