第87話 魅惑の街(4)
宝珠たちの卓に向かった妓女は、震える手で空いた酒器を盆に集め、新しい酒を手に宝珠の隣に座る。
「おつぎ、いたします……」
「あぁ」
とぽ、と琥珀酒を注ぐ妓女の指先に、ヒナタは何も言うことなくそばに寄り、添えるように手を重ねた。
「ねぇ、俺もそれ貰っていい?」
「っ!」
耳元で囁くようなヒナタの声に、妓女がびくりと身を震わせる。
怯えたように振り返る妓女のまなざしに、ヒナタは落ち着かせるよう漆黒の瞳で淡く微笑んだ。
「大丈夫。君を責めるつもりはないから。……指示したのは、さっきの男?」
「……っ、ぁ」
体を硬直させ青ざめる妓女の手元から酒器を取り上げたヒナタに、宝珠がスッと目を細める。
「……何があった」
「えー……怒りません?」
「自覚があるのか」
「違いますって! ただこのおねーさんが絡まれてたのを助けただけで。……まぁ、絡んでた相手ってのが祭祀局長だったっぽいんですけど」
最後に付け加えられたヒナタの言葉に、宝珠は新たな頭痛を耐えるかのよう額を押さえた。
「お前は……また面倒な」
疲れた声色を浮かべる宝珠に不満言いたげなヒナタだったが、さっと宝珠の手元から酒杯を奪うと宙に掲げる。
「何を……」
(《解析》っと)
宝珠を無視し、手早く指輪の解析モードで注がれた酒を分析する。
だがヒナタの予想に反し、毒や薬物のような不審なものは検出されない。
「あれ? 予想が外れたかな」
「まずは説明しろ、ヒナ……カナタ。祭祀局長相手に何をやらかした?」
「だからやらかしてませんって! ただ運動が足りてないのか、ちょっと腕が当たったら向こうが勝手に転んじゃったんですよね。あ、ところでこれって何の酒?」
「それって絶対腕が当たった程度で済んでないよね!? ね!?」
騒ぐ藍飛は華麗に無視して、ヒナタは手元の酒杯を妓女に見せる。落ち着かない様子で目線を彷徨わせた妓女だが、ヒナタの視線にたどたどしくも口を開いた。
「それ、は……最高級の龍眼の実を使った……龍眼酒です」
「ふーん? 俺が飲んでみてもいい?」
「そ、それは……っ」
「ということは、何かは入ってるんだね?」
「……ぁ……」
目を潤ませる妓女に、ヒナタは安心させるよう「店にも言わないし、罰する気もないよ」と微笑む。
そうすれば、豪奢な衣を握りしめた妓女は、ぐっと涙を堪えるよう唇を震わせた。
「ど、毒ではないと仰っていました……ただ、わたくしには何を入れたのかは分からなくて」
「なんで俺じゃなくて宝珠様に?」
「その……碧様のお部屋に冬様がいらっしゃると聞いて……“婚約者がいる身で妓楼に来ているのなら、ほんの少し楽しませてやろう”と……」
その婚約者ごと妓楼に来ているなんて誰も想像しえないだろうが、どうやら祭祀局長の反感はヒナタから宝珠に移ったようだ。
一度言葉にしたからか、耐えきれなくなったように妓女は両手で顔を覆い崩れ落ちた。
「申し訳、ございません……! 衣を汚した代償に冬様に酒を飲ませろと……っ」
「あぁ、どうせそんなことだと思った。ごめんね、巻き込んで」
宥めるよう妓女の震える体を抱き寄せ、その背を撫でてやる。
彼女の話を聞く限り、甘やかな桃の香りのするこの龍眼酒には、解析でも判明できない何かが入っているようだ。
そんなものを宝珠に飲ませるわけにはいかない。だが、かと言ってこのままにすれば、この妓女がどういった仕打ちを受けるかも分からない。
そう頭を悩ませてるヒナタの手元から、ふいに酒杯が消える。
驚いて顔を上げた先の光景にヒナタはぎょっとした。
「ちょ、ちょぉ! 何飲んでんすか、宝珠様――!」
酒杯に注がれた龍眼酒はあっという間に宝珠に飲み干され、空になった酒杯がコトリと卓に置かれる。
「別に、毒の類は私には効かない。それに私が飲まぬとその妓女に害が及ぶだろう」
「いやそうですけど――!」
さらりと酒を飲んだ宝珠に、対策を練ろうとしていたヒナタは大きく頭を抱えた。
「宝珠様に何かあったら俺が姉貴にどやされるんですよー!」
「なら、そなたも姉と共に少しは大人しくしてはどうだ」
ヒナタとカナタが同一人物だと分かった上でしれっと言い返す宝珠に、ヒナタはぐっと言葉を詰めた。
ふと、鼻先を先ほどの甘い香りがくすぐる。
「そういや、龍眼酒って桃みたいな匂いするんだね。匂いだけはいいのに」
「……え?」
それは藍飛の言葉だった。
一拍の思考停止後、彼は慌てたように残された酒器に手を伸ばし、鼻を近づける。
その慌てた様子に、ヒナタはこてんと首を傾げた。
酒からゆるりと香る桃の香り。
それを確認して、思わず藍飛は天を仰ぐ。
「まずいよ、これ。……“桃艶花”だ」
「とーえんか?」
小首を傾げたままのヒナタに、藍飛は言い淀むように視線を揺らし、周囲の妓女たちの空気もざわめきを帯びる。
どうやらこの部屋で“桃艶花”なるものを理解していないのは、ヒナタと宝珠の二人だけらしい。
「桃の香りによく似ているのが特徴でね、妓楼でよく出回ってる血の巡りをよくする薬草なんだよ」
「へぇ、薬草ですか。それなら別に問題ないんじゃ?」
「単体なら、ね」
歯切れの悪い言葉を残し、藍飛はさらに言いづらそうにヒナタと宝珠を順に見て、それから大きく息を吐き出す。
「だけど桃艶花を龍眼酒に混ぜると――強烈な媚薬になるんだよ」
「……………………は?」
予想だにしない藍飛の一言に、さすがのヒナタも思考が真っ白にかき消され、乾いた疑問しか出てこなかった。




