第86話 魅惑の街(3)
ガッシャーン!
「きゃぁぁぁ!」
厠を後に部屋に戻ろうとしたヒナタの耳に、何かが割れる音と女の悲鳴が届く。
音の出どころはすぐ下の二階。
ヒナタが迷わず階段を駆け下りると、廊下には一人の妓女が倒れ込んでおり、その周囲には砕け散った破片が飛び散っていた。
「貴様、妓女のくせに酌一つまともにできんのか!」
「ぁ……ふ、っく、もうし、わけ……」
憤慨した様子で部屋から出てきた男が、妓女の髪を掴み上げ、強引に顔を上向かせる。
苦しそうに呻く妓女を前に、スッとヒナタの目から光が消えた。
「この衣がいくらすると思ってる! 貴様のような女が一年奉公してようやく買える代物ぞ!」
「も、申し訳ございません、旦那様……っ」
「大体貴様、私を誰だと思っておる! 私こそ祭祀局を預かる……!」
「――ねぇ、邪魔なんだけど」
騒ぎ立てる男を前に、ヒナタの冷やかな声が遮った。
怒り心頭に顔を真っ赤に染める男を見て、ヒナタは無表情を崩すことなく内心ため息をつく。
(祭祀局を預かるって……こいつが祭祀局長かぁ。こりゃ璃嵐様も大変だなぁ……)
朝廷の奥地、清院にいる星解きの巫女を思い出し、ヒナタは彼女に同情した。
璃嵐がいくら有能であっても、権力を笠に着て横柄な態度をとるような部下がいたのでは心労も絶えないだろう。
ヒナタの登場に、尚も祭祀局長は激高する。
「なんだ貴様! 関係ない人間はすっこんでおれ!」
「いやだから邪魔なんだって。俺、あっちに行きたいんだよ。……そうだ、おねーさん。酒の追加を頼みたいんだけど、うちの部屋の妓女のおねーさん、ほとんどいなくなっちゃってさ。そこ片づけるついでに、誰か人を寄越してもらえないかな?」
「ぁ……あ……」
すっと手を差し出し微笑んだヒナタに、殴られて頬を赤くした妓女は困惑したように瞳を揺らした。
その様子を見て、怒りに体を震わせた男は殴りかからん勢いでヒナタの肩を掴む。
「貴様も私を誰だと思っている! 頭が高……!?」
そう口にした途端、男の呼吸が止まった。
無遠慮に自分の肩を掴んだ男の肘の内側を、ヒナタは半回転しながら肘で振り払い、勢いのままに背を向けた状態で男のみぞおちに反対の肘で一撃を叩き込んだのだ。
その間――わずか0.2秒。
瞬きよりも早い攻撃に、誰一人として何があったのか理解できる者はいなかった。
攻撃を受けた、本人さえも。
「あぁ、ごめん。手が当たった。だからこんな狭い廊下では邪魔だって言ったんだよ」
悪びれた様子もないヒナタは、男を見下ろしながら淡々と謝罪する。
ちょうどその時、さすがに放置できなくなったのか一階から慌てるような足音が聞こえた。
「あぁ、めんどくさい。あとでまた宝珠様に怒られそう……ねぇおねーさん、さっきの酒の件、頼んでいい?」
「え、あ……はい……あの、お部屋は……?」
恐る恐る口にした妓女の髪や衣服を整えてやりながら、ヒナタは目線を合わせてにこりと笑う。
「三階の青の間。じゃ、よろしくね」
そう言ってヒナタはスタスタと元来た道を戻って三階へと戻っていった。
呆然とヒナタの後ろ姿を見送る妓女の衣を、倒れた男が引き裂かん勢いで引き寄せる。
「ひ……!」
「青の間、と言ったな……? あそこの常客は碧藍飛だけのはず……!」
「き、今日は、碧様がお連れ様を連れてきたと……っ」
「客、だと……!?」
「は……はい……っ異国のお客様二人と、あと冬家の……!」
血走った目で睨みつけてくる男に、妓女の喉から引き攣った悲鳴が漏れる。
だが冬家の名が出たことで男の動きが一瞬止まった。
「冬家、だと? 碧藍飛と共にいるのなら……冬宝珠か!」
男は痛むみぞおちを押さえながらどこか狂気的に笑う。
「ふははは! 異国の婚約者ができたかと思えば、次は妓楼遊びか! やるではないか、冬宝珠! いいだろう。ならばもっと楽しませてやる。おい、女!」
「は、ひ……!」
男は胸元から一つの小瓶を取り出すと、卓にあった高級酒の中にそれを注ぎ込んだ。
「私の衣を汚した貴様に、汚名返上の機会をやろう。今からこの酒を持って行って冬宝珠に飲ませろ」
「そ、そんな……っ」
「この衣がいくらすると思っている!? 酒の代償は酒で支払え。それともこの先一年、飲まず食わずで生活するつもりか?」
ガタガタと震える妓女に、男は尚も追い込むよう愉悦の滲んだ目で笑いかける。
「なぁに、案ずるな。コレは毒ではない。ただほんの少し、妓楼というものを楽しませてやろうという老婆心よ」
そう言って男は無理やり妓女に酒を押し付けると、バタバタとやってきた店の人間に興が削がれたと言い残し、そのまま階段を下りて行った。
*
それからしばらくののち、ヒナタたちのいる部屋に新たな酒が運ばれてきた。
持ってきたのは先ほど殴られた妓女で、どこかおどおどとした様子のまま卓に酒を並べていく。
「ごめん。君が持ってくるとは思わなかった。頬、大丈夫? 早く冷やしたほうがいい」
「……ぁ、は、はい……ありがとうございます……」
一瞬、異常に強張った体。それをヒナタは見逃さなかった。
先ほど暴行を受けたことを思えば当然だが、それ以外にも何かある。
そう確信したヒナタは、妓女に囲まれ酒杯に口をつけながらも、宝珠たちの卓に向かう彼女の背中をじっと薄く眺めた。




