第84話 魅惑の街(1)
夜の帳はとうに下り、障子越しの窓の外からは人の声に交じって琵琶や琴の音が届く。
そんな普段と変わらない花街一と名高い「始楼館」の一室では、豪奢でありながらも品の良い室内に、甘やかな微香とほのかな酒の匂いが広がった。
そんな煌びやかな部屋の隅で、高級酒をやけ酒のように煽った藍飛は、行儀悪く片足を立てる。
「……おかしいな? 私、これでも常連なんだけど? というか、ここ私の部屋なんだけど? ねぇ宝珠。きみ、どう思う? ねぇ、ねぇ?」
完全に据わった目をした藍飛の愚痴を、宝珠は淡々と聞き流しながら静かに酒を傾ける。
目の前には豪勢な料理や高級な酒が所狭しと並んでいるが、彼らの周りには妓楼の花・妓女がひとりとしていない。
それもそのはずだ。
何せ見目麗しい妓女たちは、全て藍飛の視線の先にいるのだから。
「まぁ、カナタ様! 本当にお酒がお強いですわ!」
「ライ様っ、ぜひ今宵はわたくしをご一緒させてくださいませ!」
「だめよ! ライ様はわたくしと!」
「カナタ様っ、あの……!」
上座に座る若い二人の男のそばには、幾人もの美しい妓女が侍り、しな垂れかかっている。
部屋中の妓女は、来て早々にその二人に占領されているのだ。
そして何より、その二人の男は、宝珠らもよく知っている男たちだった。
ふいに、周囲にはじき出されそうになった妓女の腕を一人の男がさっと引き、彼女を自分の肩に軽く抱き寄せる。
「こらこら、おねーさんがた。せっかくみんな可愛いんだからケンカしないで? なぁ、ライ」
「そうだな。カナタはケンカより、もっと楽しいことがしたいよな」
「はは、えっち。当然じゃん」
「きゃ――♡」
「お二人とならわたくしたち、夜が更けてもかまいませんわ!」
「……」
「……」
カナタに抱き寄せられた妓女は、妓女らしからぬ初心さで顔を真っ赤に染め上げた。
周りの妓女たちも、それを羨ましげに見つめるたびに「かわいいね」と微笑まれ、ひとり、またひとりと蕩けるように彼らの沼へと落ちていく。
「碧様のご紹介とはいえ、お二人とも異国の方とお聞きしていたので、私たちも最初は不安でしたの」
「あぁ、この国は他国との交流がないんだっけ? そりゃ初めて会う外国人なんて怖いよなぁ」
わずかな苦笑を見せるカナタ――男装したヒナタに、妓女たちは一斉に首を横に振った。
男尊女卑の傾向の強い黎煌国では、大妓楼の妓女とはいえその扱いはそれほどよくない。
だがその見目の良さもさながら、異国流の柔らかな態度と優しい言葉に、妓女たちの心はあっさりとヒナタとライに掴まれてしまう。
「お二人とも船旅で事故に遭われたのでしょう? よくぞご無事でしたわね」
ライに身を寄せていた妓女の一人が心配げな瞳で見上げる。
そんな視線に、ライが薄く口元を緩めれば、妓女の体がときめくよう小さく跳ねた。
「警衛局の人間に運よく助けてもらえたからな。他にもこの国に漂着した奴はいるみたいだが」
「あぁ! わたくし、妓楼の大旦那様に聞いたことがありますわ。その……確か、冬家の婚約者様が異邦人で、子連れの未亡人だとか……」
声を抑えた妓女が、横目で藍飛と宝珠を見てこそりとヒナタに耳打ちする。
まさかその“子連れの未亡人”が目の前の男だとは誰も思わないだろう。
「そ。ちなみにその婚約者様ってのが俺の姉」
「えぇ!? カナタ様のお姉様でしたの!?」
「うん。だから名前が似てるだろ? カナタとヒナタ」
笑いながらヒナタが酒杯を差し出せば、すぐさま控えていた妓女によって淡い液体が注がれる。
当たり前のように「ありがとう」と微笑めば、礼を言われ慣れない妓女は頬を赤く染めて初々しく俯いた。
「あ、だから碧様のご紹介なんですのね。碧様も冬家一門のお方ですし、その……」
妓女の目は布を被ったままの宝珠にそっと向けられる。
週の半分を妓楼で過ごす藍飛はともかく、こういった場に宝珠が来たことはない。
何より宝珠にまつわる噂もあり、彼自身が人目のある場所に訪れること自体が稀なのだ。
そんな妓女の様子にヒナタは軽く肩を揺らしながら酒を傾けた。
「あぁ、実は宝珠様と姉貴、今ケンカ中でさ。ほとぼり冷めるまでどっかで飲もうぜってことになったんだよ。それでここに来たってわけ」
「喧嘩……ですの?」
驚きに目を見張る妓女らの様子に、そうかと納得したようにヒナタは一人の妓女の手を取り、その指先に口づけた。
「……っ! カナ、タさま……っ」
「俺らの国の女の子はかなり気が強いんだよ。この国の男なんかに負けないくらいに、な」
ちゅっと、指先に唇が触れた状態で妖艶な上目遣いを向けてくるヒナタに、ついに妓女が赤面したまま卒倒する。
その様子を見て呆れたようにライが口を開いた。
「カナタ。それ以上口説くな」
「ありゃ、やりすぎた?」
「久しぶりの夜の店だからってはしゃぎすぎだろ。……なぁ、この子はどこに運べばいい?」
ヒナタに釘を刺したライが立ち上がり、その逞しい腕が色香に当てられ倒れた妓女へと伸ばされる。
そしていとも軽々と抱き上げると、周囲からは歓声に近い悲鳴が上がった。
「み、店の者を呼びますから、ライ様はそのまま……っ」
「俺が運んだほうが早いだろ。案内、頼んでもいいか?」
「え、あ、は……はいっ」
気を失ったままの妓女をお姫様抱っこで抱き上げ、案内役の妓女と共に部屋から出ていくライに、ヒナタが口笛を鳴らす。
「ひゅ~おっとこまえ~」
「誰のせいだ」
「俺は帰りが遅くなってもぜっんぜん気にしないからごゆっくり~」
ニヤニヤと笑うヒナタに、ライは呆れ交じりに障子の向こう側へと姿を消す。
その様子を見ていた藍飛はこれ以上ない絶望感のまま、こっそりと宝珠に囁いた。
「ねぇ、分かってる? あれ、きみの婚約者だからね?」
「……人違いだ」
あまりにも楽しげに妓女無双するヒナタに、宝珠はもう、それしか言えなかった。




