第80話 首だけの守神(2)
「璃嵐様、できれば扉の外まで下がっていてください。大丈夫です。この子に傷をつける気はありません」
「……あい分かった。そなたも無茶をするではないぞ」
視線を向けることなく立ち上がったヒナタに、璃嵐は竪琴を抱いたまま後方に退避する。
ズズズッと、まるで重力のような圧が肩にのしかかった。鎌首をもたげるように頭を上げた巨狼が、混濁した赤黒い目をヒナタに向ける。
《ボクハ、斬ラレタノニ……!》
「うん……嬉しかったんだよね、また会えて」
《ボクハ……! ボクハ、ボクハ!》
「大好きだったのに。誰よりも……黎晏様が」
その名を口にした途端、地面に足がめり込む勢いの圧が全身を襲った。
初代黎主・黎晏。
その存在は、死してもなお、数百年の時が経っても巨狼の根幹部分に深く刻まれている。
それはヒナタにとっても、もっとも相性の良い――愛の呪いだ。
《違ウ! キライ!》
「あなたは嫌えない。嫌いたくても、愛してるから……だから彼を――彼の血を縛ったのね」
嘆きは、嘆きにしか癒せない。
喪失に触れるには、喪失が何かを知らなければいけない。
胸が痛む。
だが、それこそが彼らを理解できる調律士の宿命なのだ。
ヒナタの言葉についに巨狼が咆哮を上げる。それはまるで、小さな子供の癇癪のようにも見えた。
《チガウゥゥゥゥ!》
拒絶から吐き出された唸りは、風刃と化してヒナタに襲いかかる。
壁という壁が悲鳴を上げ、空気を削り、細かな破片が降り注ぐ。
だが、ヒナタは決してその場から動こうとはしなかった。
ただ一言だけ、落ち着いた声色で彼の名を呼ぶ。
「――ライ」
守るよう背後に現れたライの腕がヒナタの肩越し、まっすぐと巨狼に向けられた。
恐ろしく静かな動きなのに、その真紅の瞳には光閃が宿る。
呼吸するように二人の声が重なった。
「《~#♪》」
「《|電磁断界《マグネティック・Sフィールド》》」
ピシッ、と時空がひずみ、放たれた風刃はヒナタを標的に定めたまま空中で動きを止める。
困惑の気配が巨狼から漏れた――次の瞬間。
「弾け」
ヒナタの声と共に、一気に風が爆ぜた。
瞬く間もない。音も光も、わずかな放電だけ残して弾かれるよう周囲一体から消し飛ぶ。
パチパチと静電気だけがあちこちに浮遊し、それは巨狼の意識を止めるには十分な効果があった。
《……え?》
「……どうする?」
「信頼が足りないから、深層同調では潜れない」
宝珠のように自ら許してくれれば、巨狼の深層に潜ることはできるだろう。
だが信頼なしに強制介入すれば新たな歪みを併発してしまう危険性もあった。
「“超常的歪みを観測。コードネア、ヒナタ・ハッセルバッハの権限において、この事象を赤の根源とする”」
「“認定確認……受理。現時点を持って惑星・羅漣でのマスターコードネア全権行使を一時解放とする。期間は歪みの完全究明、または銀河共生機関介入を持って終了とする”……これは、防ぐのは難しい類の厄災だな」
形式上の口頭宣言をしてデータを残す。
コードネアといえども、職務上必要な宣誓や口頭宣言をLynxに残しておかねばあとで始末書騒ぎになってしまうのだ。
ヒナタはすっかり大人しくなった巨狼に目を向けながら、どこか淡々としていた。
「そうね。愛は歪みやすくて、ほんと厄介だから」
「……頑ななほどにな」
僅かなライの苦笑がそっとヒナタの背を撫でた。
愛と破滅は表裏一体。その甘やかさの中にある苛烈さは、時に世界さえも呪ってしまう。
目の前の巨狼の存在は、まさにヒナタのもう一つの姿でもあった。
《なぁに? それ……》
巨狼の声にいとけなさが戻る。
先ほどまでの怒りはすっかりと消えたようで、目の濁りは和らぎ、まんまると赤目が光った。
荒ぶったり、穏やかになったり。その変貌ぶりは赤子か、はたまた大自然のようだ。
「宇宙調律言語っていう古い言葉らしいの。君は知ってる?」
《そるふぇじあ……ううん、知らない。あれ? でも、知ってる……?》
こてんと巨狼は薄濁の目のまま頭を傾ける。とは言っても首しかないのだが、そのさまは実に愛らしかった。
何かを考えるよう小さく唸っていた巨狼だったが、ふいにその目が眠そうに緩められる。
《あれ……ぇ……なんだか、ボク……眠くなっちゃった……》
とろりと赤目が溶け、それを見てヒナタは恐れることなく巨狼に近づいた。
「ヒナ……!」
「守神の力を使ったのは初めてだったんじゃない? ……疲れちゃったんだね」
ライの静止を片手で抑え、ヒナタは祭壇の上、巨狼の首の真横に腰を下ろしてそっとその赤毛を撫でた。すっかりと赤に染まった毛色は、元が何色だったかさえ判別できない。
ゆっくり撫でるヒナタの手に、巨狼は気持ち良さげに目を閉じる。
「……ねぇ。君は、なんて呼ばれていたの?」
微睡みを邪魔しないようヒナタはあえて黎晏の名は出さなかった。
だが、この巨狼が黎晏と過ごした歳月を思えばきっと名前があったはず。
大事に呼ばれていた、大切な名が。
巨狼は一瞬だけ薄く目を開いた。
瞳だけでヒナタを見て、小さく鼻先を鳴らし再度目を瞑る。
「……コウ、だよ……ヒナタ」
「そっか、素敵な名前だね。……おやすみ、コウ」
小さく笑ったヒナタが名前を呼んだ時には、まるで子供のような巨狼は穏やかな寝息の向こう側にいってしまった。




