第79話 首だけの守神(1)
守神に会わせて欲しい。
ヒナタがそう申し出ると、しばらく考え込んでいた璃嵐が衣擦れだけ残して立ち上がった。
「ついてくるといい。あぁ、そこのライとやらはひとまず指輪に戻っておくれ」
そうして璃嵐はヒナタを連れ、塔の階段を降りていく。
三階の璃嵐の部屋から一階へ。それから少し歩き、裏庭の先へと向かっていく。
人気のない寂れた庭園は蔦が生い茂り、ほぼ緑化した石壁が広がっていた。
そんな中、璃嵐は迷うことなくひとつの石を強めに押し込む。
(仕掛け?)
(あぁ、隠し扉があるみたいだな。地下まで続いてる)
ライのセンサー情報にヒナタはなるほどと頷いた。
以前、夕市で林商会が持つ専用地下水路の話を聞いたが、もしかしたらこの国の技術は、中世文明の中でも非常に高いのかもしれない。
耽るヒナタをよそに、璃嵐はいくつかの石に触れていく。
凹凸のある石は沈み、璃嵐は迷うことなく真正面の壁をスライドさせた。
どうやら石戸に見えた部分は表側だけの見せかけで、実際は木製の扉だったらしい。
押した石がストッパーだったようで、姿を現した空洞はぽっかりと黒かった。
内部に取り付けられていた紗灯を手に璃嵐がヒナタを呼ぶ。
「こっちじゃ」
奈落のように続く薄暗い階段は、雨季にも関わらず、乾いてひやりと冷たい空気に満ちている。
璃嵐の持つ灯りとヒナタの指輪のライトが石畳の階段を照らし、一行は薄暗い地下へと降りていった。
しばらくすれば平坦な道に降り立ち、それから少し先に見えるのは飾り気のない扉を封じる錠前。
扉の前には飾り棚があり、抱きかかえられる程度の竪琴が置いてある。
「狼は青年の弾く琴が好きだったらしくての。妾もこうして週に一度は琴を聴かせに来るのじゃ」
解錠し、竪琴を手にした璃嵐は、それからゆっくりと扉を押し開いた。
「……!」
「あれが、守神じゃ」
岩肌を削った広間は天井だけでも五メートルはある。
その奥に鎮座しているのは、首だけで象のような体躯を持つ――赤毛の巨狼。
(……違う。赤いんじゃなくて、あれは……血だ)
赤毛と思われた巨狼を染め上げていたのは、鮮血の“赤”。
それを裏付けるように、討伐から三百年経った今でも、ぽたりぽたりと血が大地を染めあげている。
不思議なことに広間内部は明るく、紗灯もライトも必要ない。
広間には首を祀る祭壇とその前に置かれた椅子以外は何もなく、実に伽藍洞としていた。
「雄々しき守神の狼よ。どうか御霊をお鎮めくだされ」
紗灯を置き、礼を取る璃嵐の奏上に僅かに巨狼の瞼が揺れる。
どうやら首だけになっても生きているようだ。
だが、薄く開いたその目は赤黒く濁り、焦点が合っていない。
「《|全同調《〜♮♪/♮〜♮♪/♮〜♮♮♪》》」
ヒナタは少しだけ強めた同調を口づさむ。
調律士の基本交渉は対話。そこに種族や現象は問われない。
ヒナタの調律が届いた途端、ふと巨狼の口が動いた。
《……おねえさんは、だあれ?》
やけに幼い声だった。
璃嵐に目線をやれば、竪琴を抱いたまま驚きに満ちた表情で固まっている。
ヒナタはそのまま、巨狼の一メートル手前まで歩み寄ってそっと腰を落とした。
「初めまして。私はヒナタ。この惑星の外から来た人間です」
《わく、せい? ……あぁ、そうか。この国の人間じゃないから話せるんだ》
「あなたは、この国の人間とは話せないの?」
《そうだよ。晏がボクを斬ったから。だから、この国の人間はボクと話せないんだ》
見知らぬ名に、すかさずライから思考会話で補足が入る。
(晏ってのは恐らく初代黎煌国黎主・黎晏のことだ。奴は今でも自分を斬ったのがそいつだと思ってる)
(なるほどね、未だにその認識が歪んでるのか)
神とはいえ、顕現と同時に討伐されたこの守神は赤子といってもいいだろう。
それは三百年の月日が経とうとも、裏切られたあの時のまま。
血に染まって元の毛色さえ分からなくなった守神は、ヒナタが来なければ、未来永劫この地下で血を流し続けていたのかもしれない。
「私は、あなたに呼ばれたのかもね」
《……ボクに?》
きょとんと聞き返す巨狼は、その巨体に似合わずとてもいとけなかった。
とても愛されていたのだろう。言葉の端々からは愛嬌も感じられた。
それでも強い悲しみは、絶望から歪みへと変わる。
歪みは世界を侵食し、星を壊し、宇宙から消してしまう。嘆きのままに、全てを飲み込んで。
それはまるで、荒れ狂う大波のようだ。
今、巨狼が穏やかなのはほんの束の間の凪。
だからここからが、コードネアとしての交渉の場となる。
「あなたに、伝えなきゃいけないことがあるの」
《なぁに?》
「でもその前に、思い出して欲しいの。あなたは、黎晏様に斬られたのよね?」
《…………うん》
「でも、黎晏様はお年を召して、あなたと一緒に亡くなられたわ。あなたは一体、誰に斬られたの?」
その瞬間、ざわりと空気が濁った。
温度が下がる。気圧が下がったような息苦しさだ。
濁った赤黒い目がぐるりとヒナタを見て、その口元からだらりと舌が落ちた。
《…………ヹ?》
初めて巨狼の声から愛らしさが消え――数段低く、何かが歪んだ。




