第75話 大書庫(2)
(誰かが、あの女人のすること全てが奇術めいてる……なんて言っていたけど)
初めてヒナタに会った時の言いようもない違和感を律嘉は思い出す。
律嘉だって一度読んだ本を暗記する程度なら造作もない。ただ、目の前で起こっている光景を素直に受け入れられるほど彼の思考は柔軟ではなかった。
「あれ、読めてると思うかい?」
「……不可能でしょう。項を開いて数秒もありません」
そんな声は、少し離れた書棚で話し込んでいるヒナタたちには届かない。
糸留めされた書物に厚みのある装丁はなく、ただただ和紙のような柔らかい感触が指先に残る。
それにやや苦戦しつつも、ヒナタは本をパラパラとめくっては次の本に手を伸ばしながらライに声をかけた。
「赤雲の話は結構あるみたいだけど、金の話って全然載ってないねー……」
「だな。むしろ金色自体が本来の忌み色ってことでもなさそうだ。白金の春家、赤朱の夏家、黒紺の秋家、青碧の冬家って書かれているからな」
「あ、なるほど。金は春家の色なんだ。でもあの時、金が消えたのは東方面よね?」
「あぁ。つまり家柄とは関係ないのかもな」
こんな短時間で精読できるとは思えないが、漏れ聞こえる会話を聞く限りどうやら理解しているらしい。
だが律嘉の目には、顔を合わせることなく、違う書棚で違う書物を開いている二人が同じ会話をしている姿がとても奇妙に映った。
「どうなってるんだろうね、異邦人の脳って。お姫様がいるのは民族風習の書棚で、ライは地理地形図の棚。それなのに全く違う会話で繋がってるなんて。……いいね、面白い。僕の部下に勧誘しようか」
「女吏がいるのは、せいぜい祀省くらいですが」
「女人を配属させてはいけない、という規則もないだろう? あぁ、だけど宝珠のやつがあまり外にお姫様を出したがらないから困ったね。あいつが出仕しない時にお姫様が出てきてくれたらちょうどいいんだけど」
夕市や雨恵祭での出来事を思えば、宝珠がヒナタを外に出さないのは厄介事が起きるからだろう。
律嘉でさえそれが理解できるのだから、目の前の麗人ももちろん分かっているはずだ。
王麟の軽口に訝しげな表情を浮かべる律嘉。
それに対し、王麟はゆるりと目を細めた。
「きみはとても優秀だ、杜修士生。清淵様が気にかけるだけのことはあるし、その高潔さも割と嫌いじゃない。けれど、優秀なだけの実直さは時として身を滅ぼすよ」
王麟のその言葉はどこか清淵を彷彿させて、律嘉はぐっと拳を握りしめる。
「……律査局長は、あの女人に対しなぜそれほどの評価を? 異国からいきなり現れて、怪しいとはお思いにならなかったんですか?」
「そんなの、いの一番に宝珠が思っただろうさ。いきなり流れ着いた異邦人、しかもこの国の人間とは何もかも違う容姿や思想。そんなことは百も承知で、宝珠は彼女を受け入れた……あの宝珠が、だ」
「……」
律嘉や宝珠のように、蔑まれたり冷遇されてきた人間は他者との関係がどうしても希薄になる。
自然と人と距離を取り、最低限の付き合いしかしない宝珠に律嘉は不敬ながらも仲間意識を持っていたのだが、ヒナタの登場によりすべてが変わってしまった。
どこか遠くなってしまった宝珠の後ろ姿に律嘉は唇を噛み締める。
「現に彼女は実力を示した。まぁ、この国らしからぬ方法だけれどね。僕はそれを面白いと感じたし、その実力を持ってお姫様を評価してるにすぎないよ。彼女が異邦人だとか髪が短いとか、そんなものはどうでもいい。この退屈な国に新風を吹かせる彼女に先行投資しているだけさ」
「……それでも、唐突すぎませんか? 確かにあの女人には才があるのでしょう。けれどこの国は、いきなりそんなものを認めるほどおおらかじゃない」
身分制度が色濃く、しきたりに縛られた国。
貧民の出というだけで。
金髪金眼で生まれただけで。
自分たちではどうしようもない状況のせいで宝珠や律嘉は人生を奪われてきた。
だからこそ、溶けるように馴染んだヒナタの存在が受け入れられないのだ。
そんな律嘉を横目に、王麟は相変わらず話しながら次の書棚に移動するヒナタたちを目で追う。
「まあ、きみの言いたいことも概ね理解できるよ。異国人という割には言葉も通じてるし、時折、言葉の端々に違和感を覚えることもある。彼女を訝しみながらも容認している今の状況は、何かしらのからくりがあるんだろうね」
「それなら……!」
「けれど我々にはどうしようもない。彼女が何かした証拠があるわけでも、国を脅かしたわけでもないからね。むしろ、国難に立ち向かおうと協力してくれている身だ。現状言えることは、彼女は黎煌国より未来志向な国から来た少し風変わりな女人ってことぐらいだよ」
「……っ」
王麟はそれ以上語る気をなくしたのか、口を閉ざし肩肘を立ててヒナタたちを見守る。
何も言えなくなった律嘉は、持て余した感情を抑えながら揺れる栗色の短い髪をじっと見つめるしかなかった。




