第73話 濡烏の君
林夫妻との取引は無事終わり、ヒナタはついに手付金として自分だけの資産を手にした。
宝珠が危惧したとおり、ヒナタの名が表沙汰になると貴族としての面子が危ぶまれるため、今後の製造販売の過程でヒナタが関与することは一切ない。
ただ、発案者でもある雪が、冬家婚約者・ヒナタとのやりとりからインスピレーションを受けて完成した、という裏設定はひっそりと残すことになった。
「李姜たちなら黙っていてくれるだろうし、子供たちもこれは雪さんが一工夫して作ってくれたソープだよーって言えば納得すると思います」
「だといいがな」
「そのための裏設定を宝珠様が付け加えてくれたんじゃないですかー。大体、香りとか容器とかは実際に雪さん主導ですし」
大々的に口にするわけではないが、何も関与していないというよりも少しの助言をしたという体のほうが真実味は増す。
そのほうが万が一、子供たちが口を滑らせてもヒナタの助言者としての立場が守られるし、偽りの中に少しの真実を混ぜたほうが信憑性も上がるというものだ。
静阿と雪を見送った帰り道、それぞれ北と南へと分かれる廊下の突き当りで思い出したようにヒナタが宝珠を振り返る。
「あ、そうだ。宝珠様、一つお願いがあるんですけど」
「……なんだ」
「書物を見たいんです」
「書物?」
一瞬身構えた宝珠だったが、ヒナタからのお願いは随分と普通のものだった。
とはいっても、一般庶民にとって書物は貴重であり、あまり手にする機会もない。
週に一度ほど、祀省管轄の滋院で簡単な読み書きを教えてはいるが、黎煌国の識字率はあまり高くはないのだ。
「ちなみにどんなものが見たいんだ?」
「えっと、可能ならこの国の歴史を中心に伝統や風俗、風習が知りたいです。でも、ぶっちゃけなんでもいいです。できるだけ多く見たくて」
「それは……そこそこの量になるが」
「大丈夫です! 見るのはライなので」
宝珠の屋敷にも書庫はあるが、ヒナタが求めている情報はもっと膨大なものに思えた。
少し考えた宝珠は、この国の全ての書簡が集まる書庫を思い出す。
「一番大きい書庫があるのは朝廷だ。あそこならばそなたの望むものが見つかるだろうが、すぐには難しい」
「あ、すぐじゃなくていいんです。えっと、今度璃嵐様の元に行く時とか……」
幸運にもヒナタは、黎煌国で王に並ぶ権力の持ち主、星解きの巫女の後ろ盾を得ている。
以前、雨恵祭での不祥事の詫びとして贈られた青衣の礼と共に彼女と面会したい旨の書状をしたためたのだが、その返事はまだ届いていない。
璃嵐から「是」という返信が届いたのは、それから三日後のことだ。
*
「あ、ライ。髪長くして?」
「ん? あぁそっか」
朝廷に向かう日、ヒナタは同伴するライにそう頼んだ。
この黎煌国は髪の長さや美しさが貧富の象徴になる。
すでに髪が短いことが露見しているヒナタはともかく、まだ人目に触れておらず、いくらでも見た目を変えることのできるアンドロイドのライならば、この国仕様にすることも可能なのだ。
ヒナタの訴えに応じるよう、ライの髪は一瞬で腰まで届く長髪へと変わる。
美しさも長さも、そしてその見た目全て。
黎煌国の基準からしてもいい男になったライに、ヒナタが思わず歓声を上げた。
「やーだー! うちのライ、カッコいい! 長髪も似合うっ」
「戦う時には邪魔だけどな」
「大丈夫! その時はあたしがぶっ倒すからっ!」
「そりゃ頼もしいけど、俺の立つ瀬がなくなりそうだから少しはお転婆は控えてな?」
「ふふふ〜善処する〜」
楽しげに笑うヒナタに、やれやれとライが肩を竦めた。
璃嵐との面会の前に少しだけ書庫の立ち入りの許可が下りた二人は、御者車に揺られ朝廷へと向かう。
くれぐれも大人しくするようヒナタに釘を差した宝珠は、あとで迎えにいくとだけ言い残し、一足先に朝から出仕した。
ヒナタたちが朝廷に向かったのは、もう夕方の六の鐘が鳴る十六時前のこと。
てっきりこの時点で宝珠が迎えに来てくれるかと思ったが、御者車置き場にいる人影を見て思わずヒナタは目を細める。
黒檀色の髪と目。
まるで濡烏のような美しい黒を纏うまだ年若い青年には見覚えがある。
先に降りたライに手を取られるよう御者車から降り立ったヒナタに対し、彼は無感情のまま頭を下げた。
「お待ちしておりました。冬家の婚約者様」
「清淵様とお会いした時以来ですわね。杜律嘉様」
挨拶もそこそこに、律嘉は「どうぞ」と踵を返す。
相変わらず歩幅を考えない律嘉の歩き方にライの空気が物騒さを帯びるが、ヒナタは猫かぶりモードのまま軽く微笑み、そのまま律嘉の後を追った。
さて、宝珠には大人しくしていろと言われたが、どう見ても先行き不穏そうだ。




