第68話 冬鈴月
鈴月の登場は、先ほどまでの余韻を一瞬で消し去る。
どこか居心地の悪い空気の中、彼女だけは気にした様子もなく、穏やかな微笑みのまま漆黒の瞳を子供たちへと向けた。
「あら? もしかして、その子たちがあなたの子?」
不意に近づいてくる見知らぬ大人に、ルークもアステリアも反射的にヒナタの背に隠れ、ぎゅっとその青衣を握りしめる。
その様子を見て鈴月は微笑ましげに笑いをこぼした。
「ふふ、いつもは元気な声が部屋まで聞こえるのだけど、今は恥ずかしいのね。兄妹かしら? ぜひ宝珠とも仲良くしてね」
鈴月の微笑みに戸惑いながらも、互いに視線を合わせた子供たちは小さく頷く。
それに満足したのか、今度は視線がヒナタに移った。
「まさかこんなにも早く宝珠に婚約者ができるとは思わなかったの。ねぇ、お名前を聞いてもいいかしら?」
「……ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。――お初に目にかかります。このたび、宝珠様と婚約を賜りましたヒナタと申します」
いつものように即座に対応を切り替え、ヒナタは礼を取る。
曲がりなりにもこれが初めての義母との対面だ。驚きはしたが、すぐに立て直せるところはヒナタの強みでもある。
そんなヒナタの両手の指先を合わせる正式礼に、今度は鈴月が目を丸くした。
「まぁ! そんなに固くならなくていいのよ。ヒナタ姫というのね。その髪は一体どうしたの? せっかく美しいのに……」
この国で髪の長さは貧富の象徴だ。
だから鈴月の疑問も当然で、ヒナタはあえて少し切なげに視線を落とした。
「髪は、亡き夫に捧げたのです」
「まぁ……」
その言葉に宝珠も息を殺し、鈴月も悲哀に満ちた表情を浮かべた。
「そう……大切な髪を切るほどに愛されていたのね……大丈夫よ、ヒナタ姫。宝珠の成人まであと十年もあるもの、髪も伸びるわ」
「でも宝珠様は、今の髪型でいいと仰ってくれて」
「あの子が? ふふ、そんな大人びたことを言うようになったのね。まだ五歳なのに」
実際のところ、宝珠がそんなことを言った試しはないが、今まで髪の長さを言われたことはないので勝手にそういうことにしておこうとヒナタは黙って微笑む。
そこに割り込むよう李姜が少し困ったような声色で鈴月に声をかけた。
「姫様。そろそろ明るくなってまいりましたから蒸し風呂の支度に戻りませんと」
「あら、もうそんな時間なの? あぁそうだわヒナタ姫。わたくしね、あなたにお礼が言いたかったの!」
そう言って鈴月はヒナタの手を取り笑った。
真横にいるたった一人の息子である宝珠に視線一つ向けることなく。
「貴女が作った薬湯と保湿液のおかげで、最近肌や髪の調子がいいの。また新しいのができたら教えてちょうだい?」
「えぇ、もちろんです」
「ふふ、ありがとう。これからもどうか宝珠をよろしくね」
「はい――全力で守ります」
あなたからも。
その言葉はヒナタの偽りのない本心だった。
見知らぬ自分たちを受け入れてくれた宝珠や李姜らは、今やこの国の家族同然だ。
何かあれば心配するし、傷つけられたら烈火のごとく怒るのは当然だろう。
それを顔に出すことなく鈴月に微笑んだヒナタは、彼女の見えない位置からそっと空いた手で宝珠の裾を掴む。
(大丈夫。宝珠様はちゃんとここにいるから)
わずかに視線を落とした宝珠に目元だけで微笑み、鈴月に向き直ったヒナタは決意する。
今の鈴月の中に、宝珠はいない。母とはいえそれが彼を傷つけるというなら、ヒナタはただ全力で宝珠を守るだけだ。
それに気づかない鈴月は、まるで無垢な少女のようにあどけない笑みを浮かべる。
「年上の婚約者というのもいいものね。あぁそうだわ。ねぇヒナタ姫、いずれは家族になるんだから、どうかわたくしのことは母と呼んでくれないかしら?」
「よろしいんですか?」
「もちろんよ! わたくし、娘も欲しかったの。あなたのこともヒナタと名前で呼んでも構わないかしら?」
「えぇ、もちろんです。お義母様」
「まぁ嬉しい! 姜、わたくし夢が叶ったわ!」
「ようございましたねぇ姫様」
一見、和やかに見える未来の嫁姑の会話。
だが歪に狂ったその会話を、取り残された宝珠は無言のまま見つめていた。
鈴月の中に今の宝珠はおらず、仮初めの婚約者のヒナタもいずれは元の惑星へ帰る身だ。
全てが全て、まやかしの空間。
だが、そっと背中から引っ張るように宝珠の衣を握るヒナタの指先だけが、偽りの世界でやけに鮮明だった。
やがて鈴月は李姜に連れられ、ご機嫌な様子で応接間を去っていく。
完全に姿が消えたところで、ヒナタはすっと微笑みを消した。
「――最初に宝珠様が北側に近づくなといったのは、お義母様がいらっしゃったからですか?」
「……あぁ」
「ねぇ、ママ。あのひとがほうじゅさまのママなの……?」
「リア、ちょっとこわかった……」
眉を下げる子供たちを労わるように撫で、ヒナタは鈴月が消えた廊下に静かに目を向ける。
話しぶり、そしてあの振る舞いを見れば間違いないだろう。
「解離性健忘……部分的な否認状態ですね、お義母様は」
「……なんだ、それは」
ヒナタの呟きに宝珠が問う。
じっと鈴月の状態を思い出しながら、ヒナタは一呼吸置いて語り出した。
「人間は、極度の精神負荷に晒された場合、自身の身を守るために記憶や感情、特定の人物のことを無意識のうちに忘れてしまうんです。鈴月様は李姜のことを認識しても宝珠様を認識しなかった。……まぁ、珍しくはないですよ。私もそうできていたら――調律士になんてなりませんでしたから」
その言葉に、宝珠はハッとしたようにヒナタに視線を落とした。
そうだ。
極度の精神負荷なら、過去にヒナタも経験しているはずなのだ。
最愛の婚約者――子供たちの父親でもあるロイドを喪った時に。
それでも目の前のヒナタは、ただ、淡く微笑んだ。
「面白くはありませんけど、せっかくですし聞きますか? ……調律士の話」




