第65話 切れぬ縁の朝帰り
時刻は二の鐘がなった朝八時。
宝珠の居室がある北側区域への立ち入りを禁じられているヒナタは、取り次ぎを頼むため軽膳室へと向かった。
玄関廊下を抜けた先からは聞き慣れた子供たちの声が聞こえてくる。
「あ、二人ともちゃんと起きてる。おはよー」
「ママ!」
「ママだ、おかえり!」
「ヒナタ様っ」
「ただいま。ごめんねー、昨日は急に留守にしちゃって。子供たちを見ててくれてありがと、李花」
軽膳室を覗けば、子供たちが手にしたコップや箸を流し台に置き、勢いよくヒナタの腰に抱きついてくる。
どうやらヒナタもライもいない間、李花が子供たちの面倒を見ていてくれたらしい。
何事もなく子供たちを抱きとめ頭を撫でるヒナタの姿に、李花はほっと胸を撫で下ろした。
宝珠の許可があったとはいえ、昨夜の話を聞けば当然のことだろう。
「いいえ、ですが無事のお戻りに本当に安心いたしました」
「ねぇママ! アオバせんせいがきたんでしょ?」
「いいないいなー! リアもせんせいにあいたかった!」
「……先生?」
「!」
振り返ったすぐ後ろに宝珠がいてヒナタは驚く。
先ほどまで一緒にいたライは、立ち止まることなく荷物を持って客間へ向かったようで後ろ姿だけが見えた。
「え、っと……ただいま……戻りました」
「あの男は教鞭でもとっているのか」
「あー……えっと、一応そんな感じです」
「アオバせんせいはねぇ、たまにナーサリーにきてあそんでくれるの!」
「ぼくたちのしらないこと、いっぱいしってるんだよ」
「……そうか」
無邪気な子供たちの笑顔に、宝珠はただ肯定だけ返した。
どうやらあの不審者は幼い子供たちから見れば博識で、善良な大人らしい。
「ヒナタ」
ちらりと宝珠がヒナタに視線をやる。
「はい?」
「話がある」
「……はーい」
元々そのつもりで宝珠を探していたヒナタは、ごねる子供たちを李花に預け、宝珠のあとに続いた。
応接間の卓に着けば、しばし無言の時が流れる。
「……ある程度はライから聞いた」
沈黙を破ったのは宝珠だ。
それが昨夜のことを指しているのは明白で、ヒナタは指先を遊ばせながら居心地の悪さを誤魔化す。
「えぇと、今回はその……本当にごめんなさい。でも、どうしても調律核だけは欲しくて……」
「それは自身を差し出してまでもか」
「え? えっと、差し出したつもりはないですよ?」
きょとんと首を傾げるヒナタに、宝珠は小さく息を吐いた。
その栗色の瞳に一切の迷いはない。むしろ迷う猶予さえ許さないほど、どこか頑なさを感じる。
何を守り、何を捨てるか――そんなもの、ヒナタの中ではとうに優先順位が決まっているのだ。
(子供たちを守ることが、己の存在意義になってるのか)
それは喪失を知るヒナタの無意識の防衛反応なのだろう。
迷わない選択は、強さと同時にひどく歪で脆さを抱えている。一歩間違えれば、それこそヒナタ自身を滅ぼすほどに。
ライの言う通り、昨日の不法侵入者――アオバの存在は、宝珠の目から見ても奥が知れない危うさがあった。
ヒナタに対する距離も、視線も。あの一瞬でまとわりつくほどの執着さえも感じられた。
だがいっそ、それが心地よいと身を預けたヒナタにとっては、恐らくアオバは誰よりも特別なのだ。
ロイドの死と裏返しになった二人の出会い。
あの時のヒナタに救いの手を伸ばしたのは、間違いなくアオバだったのだろう。
その変えようもない事実がアオバとロイドの存在を表裏一体にしてしまった。
それを理解しているからこそ、昨日のライは――最後の最後で自らヒナタの手を離したのだ。
そんなライのやるせなさを思い出しながら宝珠は呟く。
「……子供たちは随分とあの男に懐いているようだな」
「アオバさん、ですか? えっと、あたしとライは仕事で長期間留守にすることが多くて。その時、子供たちを預けてる保育園に様子を見に行ってくれてるみたいで……」
「ずっと預けているのか?」
「あ、いえ。兄たちが近くに住んでるので夜はそっちで預かってもらってます。ナーサリーは昼間だけ」
慌ただしい日々で忘れていたが、ヒナタたちが黎煌国に来て一ヶ月とほんの少し。
互いの事情はまだまだ知らないことが多いと気づいた宝珠は、そこで一旦会話を切った。
確かに昨日アオバが言った通り、宝珠とヒナタの関係は黎煌国限定のもの。
救助が来るまで保護する代わりに、ヒナタは宝珠の婚約者として振る舞う。
それこそが当初の契約であり、それさえ守られていれば他は些細なことのはず。
しかし、多少の複雑さはあってもヒナタを止めることのなかった感情が、今となっては少し釈然としない。くすぶった感情がぶり返すようざわついた。
「……宝珠様?」
どこか窺うようなヒナタの声に宝珠は視線を向ける。
ヒナタが普通の女とは違うことは重々承知で、しがらみがないと受け入れたのは宝珠自身。
ならば例え不服とする感情があったとしても、ヒナタが表向きの役割を果たしている以上、自身が口を出す権利はないとやや強引に感情を切り離した宝珠は「なんでもない」と話を切り上げた。
別れ際、ヒナタが思い出したように声をかける。
「あ、そうだ。宝珠様、今から蒸し風呂に行かれますよね?」
「……あぁ」
「だったらあとで銀河体験してみませんか? 色々持ってきたんです! 蒸し風呂上がったら髪とか適当でいいんですぐ戻ってきてくださいっ」
少し弾む声に、宝珠は何も言わなかった。
濡れた髪のままの姿を見せるなどもはや夫婦同然なのだが、それを今説明したところで無駄なような気がする。
いつも通りのヒナタに戻った背中を眺め、宝珠は静かに身をひるがえした。




