第51話 はじまりの続き
そこは、今まで賑やかさとは無縁の場所だった。
聞こえるのは風の音や鳥の声。川のせせらぎや雨音のような、そんな些細なものばかり。
そんなある日。
時折、遠くの風に乗って幼い子供たちの声が届くようになったのだ。
その声は時間と共に賑やかさを増し、屋敷全体の空気を少しずつ変えていく。
「今日は子供たちの声がしないわ」
呟かれたその声に、李姜は櫛を止めて微笑んだ。
「本日は、宝珠様と婚約者様……それとお子様方お揃いでお出かけになられています」
「……あの子が?」
驚きに満ちた声色はまるで年若い少女のよう。
かつて黎煌国全土の貴族から庶幾われた珠玉の姫の人生は、待望の嫡男を産んだことによって全てが変わってしまった。
子を孕んだ彼女が悪いのではない。
まして、健やかに産まれてきた赤子に罪があるわけでもなかった。
それでも成長するにつれ、子供は人とは違う異質さを増していく。
そしてそんな彼を産んだ彼女に人々は畏怖と嫌悪を示さずにはいられなかった。
そうした悪意は次第に彼女の心身を蝕み、療養と称して王都別邸へと追いやってしまう。
異端の忌み子と呼ばれた幼子と、わずかな家人だけを与えて。
――あれから、もう、二十年。
嫡男として教育だけは受けさせられた子は、成長と共に布でその姿を隠し、人目を遠ざけるようになった。
やがては王都で知り合った傍流の嫡男と国試を受け、第一席という圧倒的実力で法部への出仕も修めたが、“異端”の噂は尚も彼の周囲にまとわりつく。
そんな彼が腐ることなく立ち続けられたのは、見守る家人たちと少々面倒な友人のおかげなのかもしれない。
「……薬湯も、その異国の姫君が作ったのよね?」
長年の心労ですっかり傷んで艶の失われた髪は、ヒナタ特製の薬湯を使い始めてから見る見るうちにその輝きを取り戻した。
むしろ十代の頃より美しいのではないかと思うほどに光沢を放つ黒髪は、髪の美しさを尊ぶ黎煌国では四十を超えてもなお人々を魅了するはずだ。
「はい。先ほど使った化粧水や乳液も……全てヒナタ様が考案されたものですよ」
「……そう」
かさついて少し皺の目立つようになった指先も肌も、髪と共に少しずつ輝きを取り戻していく。
そんな変化に落とされた呟きに、李姜は笑みを浮かべたまま再度ゆっくりと櫛を通し始めた。
ここは、世間から隔絶され、宝珠がヒナタたちに立ち入らないよう釘を差した屋敷北側。
宝珠とその母だけが暮らす、忘れられし場所。
そんな場所にも、雨音に混ざって新たな風が舞い込み始めていた。
*
「あーはいはい。大丈夫だよ〜」
ヒナタは慣れた手つきで子供たちを着替えさせる。
低年齢児の使用するルナファブリック製の下着には、すべて自浄蒸発作用のあるセルフドライ繊維が組み込まれているので濡れたままになることはない。
なので衛生的には問題ないのだが、感応色素によって下着に施された模様が淡く変色するため、子供たちも“おねしょをした”という事実に気づくのだ。
「もらしちゃった……」
「まま、ごめんなさい」
「だいじょーぶ! ほら、服もお布団も濡れてないから!」
しょんぼりする双子に笑いかけながら、ヒナタは手早く下着類をまとめあげた。
服自体が濡れているわけではないが、こういう時はまるっと着替えてしまったほうがなんとなくすっきりする。
それにしても、こういう時に限ってふたり揃って同じ行動をするから双子とはなんとも不思議だ。
そう考えてヒナタは改めてトランクを届けてくれた藍飛に心のなかで感謝した。
彼がトランクを持ってきてくれなかったら、服も寝具も全て手洗いする羽目になったことだろう。
文明の違う黎煌国では、洗濯ひとつさえもガイアみたいに簡単にはいかないのだ。
ヒナタは追加の洗い物を手に、ついでにトイレに行こうと子供たちを誘って部屋を後にした。
意外なことにこの国のトイレは水洗仕様。屋根に雨水を貯め、用を足したあとに紐を引くことで一気に流せるのだ。
汚水は飾り柱という支柱に似せたものを通って外部へと排出される仕組みになっており、屋敷中のありとあらゆる場所に施されていた。
「李花、おはようー。悪いけど、洗いもの増えちゃった」
「まぁ、ヒナタ様。おはようございます。わざわざ持ってきて頂いて申し訳ありません」
「いいのいいの、うちの子のだもん」
花嫁修業を兼ねて婚約期間に婚家先で同居することは珍しくない。だが、子どもの世話をする貴族の婚約者や妻はほとんどいないだろう。
そんな互いの異文化に少しずつ慣れてきたのは、十月に入ったばかりのこと。
またしてもあの男が宝珠邸にやってきて、ヒナタにこう言った。
「これは相談なんだけど……ヒナタ殿、私と一緒にちょーっと軍部に来てほしいんだ」
ニコニコと笑う藍飛の登場に、「また厄介事か」と隣りに座る宝珠が額を押さえたような気がした。
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