第36話 小さなセカイ
雨恵祭。
それは雨季の訪れを祝う、黎煌国における大切な神事の一つだ。
例年、八の月の終わりに執り行われる神事ではあるが、雨季間近のこの時期は、大抵天候に恵まれることはない。
雨の恵みに感謝する祝祭とはいえ、参列する人々や執り行う側にとってはせめて神事の間だけでも晴れて欲しいと願う皮肉な季節行事なのだ。
「……ヒナタ。行くぞ」
「はーい」
李花に最後の宝飾を差し込まれたヒナタの髪が揺れる。彼女の言葉を借りるのなら、今日もヒナタの“戦闘準備”は完璧だ。
清淵と会談した時は一晩しか猶予がなかったが、今回は三日もかけて髪に肌にと磨いて抜かりはない。
相も変わらず、綺麗に化けるものだなとやや失礼な感想を抱きながらも宝珠はそんなヒナタを見やった。
今から向かう雨恵祭には多くの貴族が参朝する。
すでに宝珠の婚約者として注目の的を浴びているヒナタにとって、その短い髪や出自に向けられる視線は、決していいものではない。
「ねぇ、宝珠様。どう?」
「……いいんじゃないか」
くるりと一回転して見せるヒナタにそう答えれば、偽りの婚約者は不服そうに眉を寄せた。どうやら以前の猫かぶりは完全に失われたらしい。
「もー、そこは可愛いか綺麗かの二択ですっ」
「……悪くない」
「悪くないならちゃんと褒めて下さーい」
そう言って唇を尖らせながらも宝珠の顔を覗き込んだヒナタは、宝珠と視線が合うなり満足げに笑う。
「なんだ」
「ふふふ、安心してください。宝珠様は今日も最高に美人ですよっ」
あの日を境に、宝珠が屋敷内で布を被る機会は減った。
顔が見えないなんてとヒナタが絶望に満ちた顔で大騒ぎするからだ。
今まで、宝珠の金髪や金眼は忌みものとして扱われてきたというのに、ヒナタだけではなく、幼いルークやアステリアまでもが宝珠を見るたびに無邪気に「綺麗」と褒めてくる。
そんな状況に戸惑う宝珠を、李母娘はいつも温かな眼差しで見守っていた。
「大丈夫ですわ。ヒナタ様はどこに出しても完璧な姫君でいらっしゃいますもの」
「……口を閉じていればな」
「一言余計です!」
「間違ってはいないだろう。家出した猫が早く帰ってくるといいな」
「ん? 猫ならいつだって帰ってますよ、私の標的がそこにいる限りっ」
「なるほど。私もそなたの獲物だったのか」
猫被りをやめたヒナタとは今では軽口を叩けるほどに距離は近い。
だが、宝珠にとっては近すぎる距離も、ヒナタにとっては「友達距離」らしく、その感覚にはいまだ戸惑うばかりだ。
≪ヒナ≫
呼び声に、パッと宝珠の前からヒナタが離れる。
彼女が振り返った先には、きっと、自分に向けたものよりもっと柔らかい笑みを浮かべているのだろう。
「ライ、子供たちをよろしくね」
≪あぁ。宝珠様、ヒナタをよろしくお願いします≫
変わらず半透明の姿で現れたライが、ヒナタに優しげな視線を向け、宝珠に頭を下げる。
あの日以来、少しずつだがライとも言葉を交わす機会が増えた。
李花たちも当初はかなりの衝撃を受けていたが、これも同調の作用なのだろうか。
ヒナタが調律士という巫女ならば、彼はきっと、その式神か何かなのだろうと妙な納得をしてしまうから同調とは不思議なものだ。
「あぁ。努力はする」
≪ヒナはわりかしすぐに手が出るんで≫
「ちょっと!」
「分かっている。私のできる範囲で抑えておく」
「ひどいっ! 二人して私を狂犬か何かと思ってるでしょ!」
犬のように従順ではないから狂猫だなと思いつつ、ヒナタの抗議を背中で受けながら宝珠は歩き出す。
「ママとほーじゅさまだっ!」
「もういくの?」
準備のため、李姜と別室にいた子供たちが廊下の向こうから駆けてくる。
突撃するよう抱きついてきた柔らかい塊を抱き止めたヒナタはにっこりと微笑んだ。
「リア、ルーク。お留守番お願いね」
「まかせて! ママ、かわいくなったよ」
「ふふ、ありがと」
「ほうじゅさま。うちのママ、すぐどっかいっちゃうからきをつけてね」
「……大丈夫か、そなた。息子にまで心配されてるぞ」
「うちの子はしっかり者なんですー! ルーク、ママが出かけるのは全部お仕事だからねー!?」
ドッと笑いに包まれるその光景は、今までにないほどに和やかだ。
ヒナタがいて、子供たちがいて、それを眺めて笑うライがいて。
呆れつつも表情を見せる宝珠に、李姜も李花も自然と笑みをこぼす。
シトシトと小雨が降り続くなか、傘を差した李姜たちに見送られ、ヒナタと宝珠は御者車へ乗り込んだ。
「んじゃ、行ってくるね。李姜たちの言うことはちゃんと聞くんだよー?」
「はーい!」
「きをつけてね、ママっ」
「行ってらっしゃいませ、宝珠様、ヒナタ様。お子様方のことはお任せください」
「あぁ。……行ってくる」
それはまるで、温かな一つの家族の姿。
一カ月も満たない時間で宝珠邸に訪れたのは、奇跡のようにささやかで、穏やかな日常だ。




