第32話 布のその下に……
「それでこんな時間に重役出勤かい? 冬律官」
そう言って目の前の麗人は、綺麗に整えられた自身の爪からは視線を外さず、実に緩慢な動きで卓の書状を一枚取り上げた。
氷のように冷ややかな声色だが、その裏では確実に面白がっているのが分かって宝珠は無言を貫く。
「まぁいいよ。まさか清淵様ならず璃嵐様にまでお目通りが叶うなんて、お前の婚約者殿は実に面白そうな姫君みたいだから。そうだ、今度ぜひ会わせておくれ」
「……それは別に構いませんが、せいぜい噛みつかれませんよう」
「ははは! とんでもない美姫だったと先ほど聞いたばかりだが、お前の話しぶりじゃあ、まるで野獣のような姫君だね。……それくらいなければお前の婚約者として面白くもないか」
そう笑みを浮かべた麗人、律査局長・王麟はひらひらと書状を振った。
宝珠直属の上司でもある彼は、地位も身分も外見さえも問わず、使えるものは使い、役に立たないものはどんな者であっても切り捨てる――そんな手腕で最年少で律査局長にまで昇りつめた男だ。
今は次期法部長官との噂が高いが、そんな実力主義ゆえに宝珠のありとあらゆる噂にも一切興味を示さない。
だが一点だけ。
部署も身分も違うというのに藍飛と飲み友達という点。これだけが実に油断ならなかった。
彼が藍飛と意気投合した結果、彼の中の宝珠の評価が、仕事はできるがつまらない男から、仕事もできていじりがいのある素敵な部下へと変わってしまったのだから。
「まぁ何も僕と三人で会えというわけじゃないよ。そうだね、藍飛とも顔見知りのようだし……あぁ! 藍飛や飛辰も誘って食事をするとしよう!」
「……勘弁して下さい」
王麟の友人であり、藍飛の直属の上司の警衛局長まで出てくるなんて胃が壊れそうになる。
そこに藍飛まで加わった日には、何をどうやっても混ぜれば危険な食事会にしかならない。
(……あぁ、だが)
ふと、二人で過ごしたあの夜を思い出す。
酒を楽しげに飲んでいたヒナタの姿に、宝珠はただ静かに王麟の手元の書状を受け取った。
「彼女は、酒が好きですが……それでも良ければ考えておきましょう」
この黎煌国で女性が日常的に酒を嗜むことはない。そんな当たり前に目を丸くした王麟だったが、数拍ののちにすぐにその相貌を柔らかくした。
「それは楽しみだね。僕の自慢の酒を持っていくとするよ。……ところで、仕事をそれ一つだけにする気かい? お前は滅多に出仕しないのだからこれくらいは持っておいき」
ドン、と高々に積まれた巻物と書状。そして満面の笑みを浮かべる王麟。
「……局長、これは嫌がらせですか」
「まさか。僕の最大限の愛情表現に決まっているだろう?」
お疲れと投げるよう振られた手に、宝珠は深々と溜息をついて諦めたように巻物に手を伸ばした。
*
「……それで、何故お前がここにいる」
報告と次の仕事を受け取って屋敷に戻れば、今度は渦中の藍飛が子供たちときゃっきゃと戯れていて思わず本音が漏れる。
両膝に子供たちを乗せる藍飛は、恐らくは実の子さえも抱いたことないだろうにどこか手慣れており、子供たちも「おかえりなさーい」と無邪気に微笑みかけてきて、それがなんともくすぐったい。
「ねぇ宝珠! これ見てくれないかい? 子供向けと侮ったら痛い目見たよ!」
そう言ってキラキラした目で手元の本を紹介してくる藍飛に、宝珠は溜息とともに小さく呆れる。
藍飛が手にしているのは――恐らくはヒナタたちの国の書物だ。
紙を巻いた絵巻か、糸留めした書物が主流の黎煌国では見かけない珍しいものだが、確かにその装丁には目を惹かれて宝珠は静かに手を伸ばした。
同調の作用で分かるのだろうか、受け取った本には『勇者ダリと弱虫ドラゴン』と書かれている。
「ダリはね! ほんとうはダリアっていうおひめさまなんだよ!」
「ドラゴンといっぱいぼうけんして、うばわれたおうこくをとりもどすんだっ」
「火の山の戦闘場面は実に素晴らしかったね! 私も年甲斐もなく興奮してしまったよ!」
「…………そうか」
三者三様の感想とネタバレに相槌を打ちながらも椅子に腰を下ろせば、藍飛の膝にいたアステリアが今度は宝珠の元へとやってくる。
何も怖いものはないと言わんばかりのその様子に、思わず宝珠でさえ心配になってしまうほどだ。
そんなアステリアが宝珠の膝に登ろうと布を掴んだ――その時。
「……!」
ずるりと足を滑らせて落ちかけたアステリアに宝珠が咄嗟に手を伸ばす。
その拍子に、ふわりと宝珠のまとっていた布が浮き上がった。
視界の端で藍飛が「あ」と声を上げると同時に、応接間にヒナタが入ってきたのが分かる。だが、どうしようもなかった。
滑り落ちた青いフードの下にあったのは、この黎煌国では見ることのない――金髪金眼の端正な顔立ち。
同時にヒナタと視線の合った宝珠は、互いに息を呑む。
先ほどまでの和やかな騒々しさが、どこか遠くへ行ってしまったような気がした。




