第29話 赤き空の向こう側
(なるほど。情報が早い)
差し出された茶杯に視線を落としつつ、ヒナタは清淵の言葉にも一切表情を変えなかった。
濁流に呑まれた子供を救出したのは今から一時間と少し前。
通信機器がないこの国で、宰相の耳にそれが届いているとなれば市井にはよほど優秀な“耳や目”が存在しているのだろう。
あるいは最初からただ監視されていただけかもしれないが、どちらにせよ、初手でそれを会話に出してくる時点でヒナタを試す意図があったのは明白だ。
「おや、婚約者殿は随分と狸との場数に慣れていらっしゃるようで」
「まぁ狸だなんて。私はいつだって愛らしく、毛並みの良い狐しか愛でませんの」
「それはそれは。私もいずれはそのような狐を得たいものです」
駆け引きには慣れているようだという清淵の挑発に、あなたはこの私が相手をするに相応しいのかしらと平然と切り込むヒナタ。
清淵もそれに同意し、現状のヒナタにはそれほどの価値があるとは思えない、と切り返し微笑んだ。
その瞬間、二人の間にピンとした空気が張り詰める。
だが軽い挨拶はそこそこに、会話は次へと移った。
「しかし、こたびの件については深く感謝を。この時期は特に水難事故が多く……勧告しても古くからの生活水路のため水辺に近づく住人が絶えないのです」
「水の国ならではの悩みですわね。ですが生活がある以上、民は必ず水辺に集まりますわ。ならば防ぐよりも、いざという時に死なない工夫に転換すべきかもしれませんわね」
「死なない工夫……ですか。具体的には?」
そう問われたヒナタは顎に指を添え、ほんの数秒思案する。
「そうですわね。……例えば、一斉放水や増水時に何か合図はありまして?」
「以前までは鐘を鳴らしていましたが、時刻の鐘と混同するとの声もあり、今は人づてが主に……」
「それでは間に合いませんわね。そうだ、銅鑼はありませんの?」
「……銅鑼?」
少々驚きに満ちた清淵の言葉にヒナタがふわりと微笑む。
「えぇ、銅鑼です。あれは戦場でも用いられるほどに広く響く音。危機を知らせるのにちょうどいいですし、それに加えて狼煙……いいえ、街中ですし、旗がいいですわね。それを銅鑼の音と共に上げることで子供でも危険だと理解できるはず。山々を介した戦場では似たような手法が取られますから、その応用とでも思っていただければいいでしょう」
「……まさか兵法にも優れているとは、いささか驚きでした。銅鑼ですか……それなら確かにすぐに用意できますが」
「ふふ、あとは水路に沿って旗を上げさえすればいいだけですし、それできちんと対策を取ったという政治的主張にもなりますでしょう?」
ゆるりと艷やかに目を細めたヒナタに、清淵の纏う雰囲気が僅かに変わった。
安全対策だけでなく、その提案は政にまで及んでいる。
「あとは木板を括り付けた投縄を救助用として設置するのもありですわね。編み込み縄を直接水路に掛ければ、流木等が絡むという難点はありますけれど、流れてきた人の命綱にもなります。視覚的に分かりやすいものとしては橋に危険水位印を表記して、その水位を超えたら立ち入りを禁じるような勧告を出すほうがいいかもしれませんわ」
淀みなく紡がれるヒナタの提案。それには清淵だけではなく、宝珠も律嘉も、今まで“しょうがない”とされてきた常識を強く揺さぶられたような気がした。
「……それも全て、異国では常識のことで?」
(――……来た)
一拍抑えたような清淵のその声に、ヒナタはそっと背筋を正し茶杯に手を伸ばす。
恐らくは宰相・清淵による、最初の試練をクリアしたのだ。
香り高い茶に一息ついたヒナタは閉じた瞳をゆっくりと開く。
「そうですわね。我が国は他国とも国交がありますから、多様な文化や問題に触れる機会も多いんですの」
「それは……全て海の向こう側の?」
「えぇ、海の向こう――空の向こう側ですわ」
場が、しんと静まり返る。
言葉の意味を正しく理解したのは直接同調を受けた宝珠だけだが、それ以上は清淵も尋ねることはなく、ただ静かにヒナタを見据えた。
「……文献で、空の向こう側は青空が広がっていると読んだことがあります。貴女は、その空をご存知ですか」
「……」
清淵の瞳は、ただ真っ直ぐにヒナタを見ていた。
それに対しヒナタは、まるで春の陽光のようにふわりと微笑む。
「空は、深く、この青衣のように美しい青色。真っ白な雲の隙間から差す光は燦々と黄金のように眩しく、夜は黒い空に白い月と満天の星々が輝きますの」
それを聞いて清淵が卓の下でぐっと拳を握る。
「それ、は……この国でも見ることができるのでしょうか?」
「……えぇ、条件さえ満たされれば」
どこか引き絞るような声に、ヒナタは静かに頷いた。
ここに来て初めて、今までヒナタを計っていた清淵が提案をしてくる。
「……婚約者殿。よろしければ貴女にぜひ会って頂きたいお方がおります」
「! 清淵様、それは……!」
律嘉の声を片手で遮った清淵は、ただ真摯にヒナタに向き直った。
「この国における王……黎主と同じく最高位のお方。――星解きの巫女様に、どうかお目通りを」




