第28話 静かな戦場
「……ヒナタ」
「もー分かってますー。大人しく、でしょ?」
唇を尖らせるヒナタに宝珠は大きくため息をつく。
先程の行動を思えば、何かあった瞬間に飛び出しそうな勢いの偽婚約者に頭痛に合わせて胃痛までしてきた。
だがそんな宝珠の心配をよそに、朝廷という魔窟に一歩足を踏み入れた瞬間ヒナタの纏う空気がガラリと変わる。
それはまさに、息を呑むほどの“美”の圧巻。
艶めいた栗色の髪はわずかな光さえも反射して揺れる。
控えめに伏せられた睫毛の影まで捉えてしまうほど肌は白く、瑞々しさと透明感に満ちていた。
少しつり目がちな瞳とは反対に、薄づいた頬と唇は可憐で柔らかく見え、爪先まで意識されたその立ち振る舞いは内側から自信に満ち溢れている。
その髪の短さに嫌悪を示す人間がいたとしても、十人中八人は彼女を“美しい”と評価せざるえない、まさに男が一夜を夢見るほどの美しさ。
それこそが、ヒナタの持つ最強武器の一つだった。
だがそれさえも、ヒナタにとっては交渉手段にすぎない。
どうすれば自分がより輝くかなんて、そんなものガイアの女なら三歳児だって知っている。
注目を浴びることをさも当然とした上で、逆手に取っているだけなのだ。
だからこそヒナタは、そこが女を寄せつけない古い慣習の蔓延った男社会の朝廷だとしても臆することなく堂々と歩いた。
ふいに、前方から一人の少年が現れる。
濡れ烏のような艶やかな黒髪。夕市でヒナタに対してあからさまな不信感を見せた、あの杜律嘉だ。
「お待ちしておりました、冬律官」
「……杜修士生か」
宝珠の前に立ち、恭しく頭を下げる律嘉。
それに対する宝珠の言葉にも抑揚は感じられない。
だからヒナタも、一瞬だけ向けられた鋭い視線に何も言わず柔らかい眼差しで律嘉を見返した。
あからさまな敵意は、交渉の場において不利になることのほうが多い。
それをきっとこの美しい黒髪の少年はまだ理解するほどの場数を踏んでいないのだろう。
(年下、かな。頭は良いけど融通が効かない)
律嘉に対するヒナタの印象は決して悪くなかった。なんせ、ただの一貴族で宰相候補生でしかない律嘉が、この国の四大貴族直系の婚約者というどう見ても身分が上のヒナタに噛みついてきているのだ。
それが牙を剥き出しにして威嚇する子猫のようなのだから、可愛いと思わずになんとするだろう。
脳裏で律嘉の頭に猫耳を付け加えれば、思わずふふっと笑いが漏れる。
宝珠の無言の視線を感じたが、あえて視線をまっすぐ向けてヒナタは律嘉の背を見つめた。
歩幅を気にしない歩き方だって、その敵意が詰まった対応全てが幼稚で愛らしい。
(この程度の子なら――いずれきっと、潰される)
スッと細めた微笑のまま、ヒナタは律嘉の背を追うように歩き出した。
その後の一行は、短い道中で官吏や下役の無遠慮な好奇な目に晒される。
元庶民で、その容姿と才能を見込まれ杜家の養子となった律嘉は、庶民といえば聞こえがいいが、実は貧民層の生まれとの噂もあった。
その一方で、由緒正しい四大貴族・冬家嫡男に生まれながらも、凶兆の存在と冷遇され、次期当主としての継承権さえも剥奪された宝珠は、遠く冬家の領地から離れて数少ない家人たちと共に王都で暮らしている。
そして、そんな宝珠が最近手にしたという存在が――海の向こうの異国から来たという正体不明の子持ちの婚約者。
好奇な噂は、尾びれ背びれをつけ面白おかしく広まっていたが、ヒナタはそんな視線をものともせず、凛とした姿勢を崩さなかった。
そんな噂、この美しさでいくらでも塗り替えられるのだ。
そうして律嘉に案内されたのは、飾り気がなくどこまでも実務的な執務室。
部屋の奥に鎮座する広い執務机の前には一人の男が座して黙々と書類を片付けており、ヒナタたちの来訪に筆を置いた男は柔和な笑みを浮かべる。
「お久しぶりですね、冬律官。ふふ、なるほど。冬律官は随分とお美しい婚約者殿をお探しだったようだ。……あぁどうぞ楽に」
指先だけを合わせる黎煌国独自の礼を取れば、すぐに視線を上げるよう促される。
声だけ聴けば、とても耳当たりの良い声だ。表情も温厚で、言われなければ一国の宰相とは思えないかもしれない。
だが、その柔らかな瞳が、まるで見定めるように自分に向けられていることをヒナタは気付いている。
(さぁて、手札がない以上どこまでこの狸の相手ができるやら……)
譲歩は最小限に、欲しいものは最大限に。それがいつだってヒナタの信条だ。
最初の攻撃はいつだって笑顔から。
それはどこの世界でも変わらない常套手段。
そんな笑みを崩さないヒナタを見て、目の前の男もにこりと笑う。
「初めまして、冬家の麗しい婚約者殿。私が黎煌国宰相・清淵と申します。先程は随分とご活躍だったそうですね。尊い命を救ってくださったこと、私からも礼を申し上げます」
和やかに、穏やかに、ゆっくりと。
水面下の戦いはもう始まっている。




