第15話 帰途(2)
待っていた御者――趙陽は、思わず目を見張った。
彼は御者車を任され十五年目のベテランだが、よもやこんな光景を見る日が来るとは思いもしなかったのだ。
「お帰りなさいませ、宝珠様。ご婚約者様」
「屋敷に戻る」
「かしこまりました」
今、趙陽の若き主人が抱いているのは――寝息を立てる幼子だ。
車の戸を開ければ、必要最低限の会話だけで子を抱いた宝珠が乗り込み、それに続くようもう一人の子供を抱いたヒナタも趙陽に軽く頭を下げ乗り込んでいく。
遥か海の向こう側からやってきたという彼女は、御者にも気を遣う大変珍しい女性で、国へ帰る手立てが見つかるまでは保護という名目で宝珠と仮の婚約を結んだのだと密かに聞いた。
しかし、彼女の子を抱く宝珠を見て、存外二人はうまくいくのではないかと思ってしまう。
(あの宝珠様がお子を抱く日を見られようとは……凛月様は、このことをご存じなのだろうか)
戸を閉め、御者席に戻りながらも趙陽は久しく姿を見ていない女主人を思い出す。
絶世の美姫とも謳われた宝珠の母・冬凛月。
その美貌は四家全ての次期当主から婚姻を申し込まれるほどに美しく、凛月を勝ち取った冬家は大いに株を上げた。
だが、期待と共に生まれたのは、黒髪とそれに連なる色味のこの黎煌国では生まれ得ない――金髪金目の子。
凛月が不義を犯したか、あるいは彼女を手に入れられなかった三家の呪いか、災いか。
そんな背景もあり、宝珠の存在は凶兆なのではと、まことしやかに噂は広まっていった。
――けれど、今は。
宝珠邸までの長い上り坂を、ヒナタたちを乗せた二頭仕立ての御者車は紗灯を頼りに進んでいく。
子供たちの寝息だけが聞こえる室内で、ヒナタは反対側に座ってルークを抱く宝珠に声をかけた。
「宝珠様、ルークを抱いたままだと暑くありません?」
ヒナタもアステリアを抱いているからよく分かる。まるでその小さな体に生命という全エネルギーを集結したかのように、子供の体温はめっぽう高いのだ。
うっすらと汗ばんだアステリアの前髪を払って宝珠に目線を向ければ、彼は静かにルークを見ていた。
「……子供とは、こんなに無防備に寝るものか?」
「それは安心しているから無防備なんです。誰にでもじゃないんですよ?」
「……安、心……」
すぴすぴと寝息を立てるルークに、安心されるだけの要素が自分にあっただろうかという疑問が空気と共に溶ける。
偽りの婚約を結び、不自由がないよう李姜たちに世話を命じたものの、宝珠自身、この母子との接触は必要最低限だった。
食事は各々部屋で取るし、昼間は北の自室か、出仕して屋敷にいないかのどちらか。
会うといってもせいぜい廊下ですれ違うくらいが関の山だったはずだ。
それなのに、腕の中にいる幼子は宝珠が手を伸ばせば、怖がるそぶりも見せずに迷わずその手を取った。
不思議そうな宝珠のその様子に、ヒナタがくすりと笑う。
「宝珠様は安心安全ですよ。なんせ李姜たちがいっぱい宝珠様の話をしてくれますから」
「……姜が?」
少し意外そうな口調で宝珠が聞き返せば、ヒナタは微笑んだまま頷いた。
「一日三十回くらいは宝珠様のお名前聞いてますからね。見ての通り、すっかり子供たちも宝珠様に馴染んでます」
「……私のいないところで一体、何を話してるんだ……」
「ふふ、李姜たちによる"うちの宝珠様は素晴らしい!"っていう秘密の自慢大会です」
「もう私に明かした時点で秘密ではないな」
「あ、しまった。せっかくの自慢大会だったのに」
くすくすと笑いながら、ヒナタは少し前に子供たちがなぜ宝珠は布を被っているのかと聞いてきたことを思い出す。
あの時、ヒナタはしーっと人差し指を口元に当て、真剣な顔で子供たちに耳打ちしたのだ。
『あのね……これはママとの内緒ね。宝珠様の正体は、みんなにバレちゃいけないの。だって――ヒーローが顔を見られたら大変でしょ?』
『『!』』
それを聞いた子供たちは反射的に口元を隠し、興奮気味に目を輝かせながらこそこそと話し出した。
『それってほうじゅさまはせんたいヒーローってこと?!』
『だからぬのでかおをかくしてるの?!』
『うんうん。まぁ、ちょっと違うけど、とにかく宝珠様は顔を隠してなきゃダメなの。だからあなた達も宝珠様の顔は秘密だし、お仕事の邪魔もしちゃダメよ?』
『わかった! リアたち、いいこにする!』
『うん! せかいをすくうおしごとのジャマしない!』
こうして宝珠本人の知らぬところで、彼の正体は悪と戦う正義のヒーローになってしまった。
だがそれゆえにルークは、言葉も交わしたことのない宝珠相手でも迷うことなく手を伸ばせたのだ。
例え、直接の触れ合いがなくとも。
宝珠とヒナタたちの関係は、こうしてゆっくりと変わり始めていく。




