第1話 銀河の外の世界
波音に交じって、遠くから懐かしい声がする。
――週末のブライダルフェア? そりゃもちろん忘れてないけど……でもその前に、兄さんたちにいい加減末っ子離れしてもらうよう直訴しに行かなきゃ、だろ?
冗談めいて笑う時間は、あの時の二人にとって間違いなく“永遠”だった。
触れ合う指先。温かな体温。
薬指に光るお揃いの指輪は、未来へと繋がるはずだったのだ。
それなのに、世界は突如として“永遠”に牙を向く。
穏やかだった波音は次第に遠ざかり、世界は闇に覆われ、どす黒い雨が叩きつけるよう降り注ぐ。
濡れた体がやけに重くて、痛くて。
血にまみれた体を抱きしめるたびに、わずかな体温さえも根こそぎ奪われていく。
――ヒナタ。
重ねた手のひらから伝わるのは、悔やむような、困ったような……愛しさと切なさを孕んだ最後の灯火。
『ロイ、ド……』
――泣くな。
触れるだけの唇から伝ったのは
二度と交わせない、死の間際の
最期の――“あいしてる”
『やだ……いやだ……! ねぇ、いかないで……あたしをひとりにしないで……っ!』
*
「……!」
頬を刺す砂の感触にハッとヒナタは目を覚ます。
夢の残滓かのように聞こえてくるのは、寄せては返す穏やかな波音。
だがそこは、まるで悪夢の続きだと言わんばかりに血に濁ったような赤雲が空を覆っていた。
ふと目線を向けた左手の指輪から浮かび上がるのは、“銀河ネットワーク圏外地域”の警告表示。それを見てヒナタは即座に立ち上がる。
「ルーク! リア!」
だが、どれだけ名前を呼んでも答える声は聞こえない。
(子供たちとはぐれるなんて……!)
そう考えるより早く、簡易GPSを作動させようとした――その時だ。
「……И#、∝Δ?」
気配に気づかないくらいに動揺していたのだろう。ふいにかけられた声に操作が途絶え、GPSが宙からかき消える。
――投げかけられた言葉は、理解出来ない。
何せここは銀河ネットワークの圏外――裏律界なのだ。
そんな未開領域の惑星で言葉が通じないなどごく当然で、ヒナタは反射的に言語の同調を短く口ずさんだ。
「《~♮♪》」
ガチャリ、と世界が噛み合う感覚。
先ほどよりも近づいてきた二人組は、問いに応えぬヒナタに再度尋ねた。
「きみ、大丈夫かい?」
「――えぇ、ごめんなさい。大丈夫」
長い髪をゆるりと肩に流した青年の問いに、ヒナタは外交的な笑みを浮かべる。
青色の長衣を身に纏い、どこか東方風の装いだが、一人は布で顔を隠してまったくその姿が判別できない。
「こんな夜更けに女人が一人でいるのは危ないよ。最近は人さらいの件もあるし、なにより……珍しい衣だ」
ランタン代わりの紗灯を手にする彼は、ヒナタの姿を見て少しの心配と警戒を滲ませる。
夏の夜でも長衣の彼らを見るに、肌を露出しない文化圏なのだと直感したが、今のヒナタにそれを説明している時間はない。
「子供たちを探しているんです。三歳くらいの男の子と女の子。どこかで見ませんでした?」
「……子供?」
そう口にした青年は、目線を隣に並ぶ青い布を纏った人物へと向ける。
「……この周辺を見回ったが、子供は見ていない」
「だよね。私もだ」
「そう、ですか。ありがとうございます」
少しの沈黙ののちに返ってきた返答に礼を告げると、ヒナタは二人に背を向けた。
彼らから見えないよう再度GPSを起動させれば、そう遠くない場所に小さな反応が二つある。
「ちょ、ちょっときみ……!」
「ごめんなさい。子供たちのところに行かなきゃ」
背中に青年の声が届くが、ヒナタは迷うことなく走り出した。
表示によれば距離にして三百メートル。GPSを頼りに最短距離で子供たちを目指せば、赤黒い闇に紛れる数人の影と、大きな麻袋が二つ。
「誰だ……っぐぁッ!」
男の言葉が絶叫にかき消える。
一瞬で男の腕を捻り上げたヒナタが、前屈みになったその腹部に容赦なく膝蹴りを叩き込んだのだ。
「お、女ぁ?!」
ヒナタの存在に動揺を見せる男たちだが、そんな彼らに構わず、服を掴んで体勢を崩させると迷うことなくその喉元目がけて回し蹴りを打ち放った。
巻き込まれるように吹き飛ぶ彼らの手元からは麻袋が離れ、奪還するようにヒナタはそれらを抱き止める。
「なめやがって!」
後ろから襲い掛かってきた男の攻撃を身を低くして躱し、顎を蹴り上げ、二連続の回し蹴りで壁に吹き飛ばせば、衝突音と砂埃の残響ののち、静かな余韻が訪れた。
男たちの呻き声を冷めた目で見下ろしたヒナタは、そっと地面に下ろした麻袋の口を開き、ようやく安堵の表情を浮かべる。
「……ルーク……アステリア」
温かな体温と繰り返される寝息。
ぎゅっと幼い二人を抱きしめると、こちらに向かってくる複数の足音が耳に届いた。
「これ、は……?!」
血を流し、痛みに呻く男たち。そして麻袋の中の幼い子供たちを抱きしめるヒナタを見て、砂浜で会った青年の声が困惑に揺れる。
どうやら今日は、とても長い夜になりそうだ。