006
外壁の上から見下ろす限り、魔物の姿はもう見えなかった。
俺は、地上で戦っていたレオン、レイ、ミリアリアを順に転移させ、自分の傍に呼び戻した。
「手応えはどうだった?」
「んー……まあ、ダンジョンの化け物のほうが手強かったな」
レオンがいつも通りの調子で肩をすくめる。
まあ、そりゃそうだ。俺たちが封じられていたあのダンジョンは、神代の化け物が跳梁する異常領域だった。
奴らは、たった一体で国を壊滅させるような存在だ。スタンピード程度と比較するのが間違いってもんだろう。
「ねえ、シン? ご褒美ちょーだい?」
ミリアリアが、唐突に俺へと身を寄せてくる。
そして、躊躇いなく胸元を押し当てながら、唇を重ねてきた。柔らかな吐息とともに舌を絡め、俺の口内を蹂躙するように味わっていく。
「なっ、なっ、なーっ!?」
背後でアリステリアが声を裏返した。どうやら、こういう類のスキンシップには免疫がないらしい。
ミリアリアは、ふふっと愉快そうに笑いながら、俺の舌に小さな牙を立てる。
浅く、優しく──だが確かに、血を吸う。まるで、互いの存在を改めて確かめるように。
「……程々にしてくださいね」
その様子を見ていたレイが、少し呆れたように声をかける。
「えー? なにそれ、嫉妬? うらやましーのー?」
ミリアリアは唇を離し、にやにやと意地悪そうな笑みを浮かべてレイに向き直る。
「ええ、そうですが? 何か?」
レイは、恥じる様子も気まずそうな気配も一切見せず、さらりと応じた。
「レイ、おいで」
可愛いことを言う彼女を、俺はそっと手元に引き寄せ、腰に手を回した。
「……旦那様?」
「近くにいてくれてもいいだろ?」
「……それは、はい」
レイは少し戸惑ったように視線を落とす。俺が人前で、こうして愛情を示すのは珍しいからだろう。
「レオンも、お疲れ様」
「フェリスも、支援ありがとな」
少し離れた場所では、天使と悪魔のやり取りが見えた。
フェリスは天使で、レオンは悪魔。相反する種族でありながら、そこに宿る愛情は、傍目にもはっきりとわかる。
「……あ、あの、シン殿。本当に……スタンピードは終わったのか?」
気が抜けている俺たちに対し、まだ緊張を解けていないアリステリアが、戸惑いを隠せずに声をかけてきた。
俺はレイに軽くキスをしてから、彼女へと視線を移す。
「見える範囲では、な。
ただ、スタンピードは魔物の群れに過ぎない。すべてを倒しきれていない可能性はある」
無責任な安心を与える必要はない。正直に話すほうがいい。
「ほ、本当に助かった……!
この街に住む民たちに被害を出さずに済んだ。何と感謝していいか……」
アリステリアは、丁寧に頭を下げた。その姿には、感謝の思いが滲んでいた。
「最近は、スタンピードってそんなに頻発してるのか?」
俺の問いに、アリステリアは少し表情を曇らせる。
「……他の街や国が壊滅したという話は、よく聞く。
私たちの街で起きたのは、今回が初めてだが」
スタンピードが頻発する世界か。あまり健全とは言えないな。
魔物の突然の大量発生は、世界がバランスを取るための現象だ。
その基準は多様だが、時には“人間の数を減らすため”に発生することもある。そういう世界も、確かに存在する。
「そうなのか。
……それより、これなら冒険者ギルドへの招待状を書いてもらえるか?」
俺の目的は、スタンピードの鎮圧ではない。
アリステリアから“冒険者ギルド”への招待状を得ること。
今の俺たちは、この世界においては身分不明の存在であり、実績によって信頼を得るしかない。
「も、もちろんだ!
ここまで助けてもらって、約束を反故にするなんてことはありえない」
アリステリアは、まるで「当然だろう」と言いたげに頷いた。
「……だが、貴殿には、後日あらためて我らのもとを訪ねてもらうかもしれない」
続けて、少し思案するように眉を寄せる。
「その……あまりにも強大すぎる力を、何の対処もせず野放しにはできないからな」
「それは構わないが……タダで呼び出されるのは割に合わないな」
俺が軽く肩をすくめると、アリステリアは少しだけ目を見開いたあと、考えるように視線を逸らした。
「貴殿たちは、宿の手配は済んでいるのか?」
「いや。そもそも、この国の硬貨すら持っていない」
「であれば、我が家で滞在先を提供しよう」
提案というより、申し出に近い響きだった。
客分として迎えることで、俺たちの動向を見定めたいのだろう。
実を言えば、俺は眠ることはできるし、睡眠も取る。だがしかし、毎日必要なわけではない。
俺たちの中で、定期的な休息が不可欠なのは、人間──ヒューマン族のレイだけだ。
「……ふむ。それなら悪くないな」
とはいえ、レイやミリアリアと静かに過ごす時間は、俺にとって悪くないものだ。
その時間を守るために、多少の便宜を受けるのは、十分に“釣り合う”といえる。
「では、そのような手筈でよいだろうか?」
「ああ、問題ない」
「ならば一度、屋敷へ戻ろう。宿の候補を探すための時間が欲しい」
「ああ、任せるよ」
俺たちは、アリステリアに従ってヴォルンハイム家の屋敷へと向かった。
街の外壁から地上へ降り、街中を進んでいくと、武装した人々の姿が目についた。
整えられた装備に、張り詰めた表情──おそらく、スタンピード発生時に動員された防衛戦力だろう。
すでに俺たちが殲滅した後だ。彼らの出番はなくなってしまったが、
万が一に備えた布陣が、きちんと整っていたことは、この光景からも明らかだった。
それはつまり、アリステリアという人物が決して慢心せず、現実的な対応で街と民を守ろうとする、誠実な指導者であることの証でもあった。
やがて、俺たちは屋敷に辿り着いた。
正門を抜けて館内に入ると、まだ緊張の残滓が漂っていた。
廊下では、書簡を手にした使用人たちが慌ただしく行き交っている。スタンピードに関する報せや応対に追われているのだろう。
無言のまま、俺たちはアリステリアの背を追って廊下を進んだ。
両脇には、重厚な木製の扉が等間隔に並ぶ。やがて、そのひとつの前でアリステリアが立ち止まった。
「こちらだ。中で待っていてくれ」
そう言って、彼女は扉に手をかける。
蝶番が静かに軋み、応接室の中が露わになった。
以前と同じ、質素ながらも重みのある空間だった。
高い天井に灰色の石壁、中央には黒檀の長方形テーブル。
長窓は分厚いカーテンで閉ざされ、仄暗くも静謐な空気が漂っている。
「宿の候補を手配してくる。すぐに戻る」
そう一言だけ残して、アリステリアは扉を閉じて去っていった。
俺たちは、それぞれ馴染んだ手付きで椅子を引いて腰を下ろす。
レイは左に、ミリアリアは右に。フェリスとレオンは前と同じく、壁際に控えた。
しばしの静寂が、部屋を包み込んだ。時おり、外から鳥の声が聞こえるが、それはより一層に静けさを強調していた。
俺は背もたれに寄りかかり、少し力を抜いてリラックスした姿勢を取った。
その様子を見ていたミリアリアが、椅子を音もなく引き寄せ、ぴたりと俺の隣まで移動してくる。
彼女は俺の椅子に自分の椅子をくっつけると、そのまま身体をもたれかからせてきた。
続いて、今度はレイが椅子を静かに動かし、ミリアリアの反対側から同じように寄り添ってくる。
俺は何も言わずに、彼女たちの愛情表現を受け入れた。
そんな戯れで、少しだけ時間が過ぎた。
そんな静寂を破るように、俺は、少しだけ息を吸い込む。
「レオン、今回は……こんな感じで問題なかったか?」
壁際のレオンへ声をかけた。
「うえ、なんだよ急に。俺はシン王に従うしかねえだろ?」
レオンは肩をすくめながらも、破顔する。
「自分に従う者には、できる限り心地よくあってほしい。
それが“王”の務めだ」
──もう、俺は“没王”だが。
それでも、付き従う者を雑に扱う気はない。
「ん、いいんじゃねえの?
俺は特に不満なんてなかったぜ」
「そうか。……フェリスは?」
レオンの次に、フェリスへ視線を向ける。
「ありません。……あれば、ちゃんと申し上げますので」
フェリスは小さく微笑みながら、静かに首を横に振った。
「シンは、ちょっと気にしすぎよ」
ミリアリアが俺の様子を見て、身を乗り出すように顔を覗き込んできた。
「そうか?」
「ええ、そうよ」
彼女はにっこりと笑って、あっさり肯定する。
「……レイはどう思う?」
俺は反対側に座るレイへ視線を向けて問う。
「私の考えは、基本的に旦那様寄りです。
……会話で本心を正確に伝え合うのは難しいかもしれませんが、突き詰めることで“近づく”ことはできると思っています」
「……まあ、俺もそう思ってる」
わざわざ言葉にするまでもないが、会話とは、そうやって互いに歩み寄るための手段だ。
「けどよ、シン王。俺たちは、基本アンタの決定に従う立場なんだ。
だから俺がどんな顔してても、命令さえしてくれりゃ動くぜ?」
レオンが気軽な口調で言いながら、肩をすくめる。
「……いざとなったら、そうするよ」
没王となり、"王"の制約から解放された。でも、命令という手段が使えないわけじゃない。
けれど、命令ではなく、願いとして言葉をかけたときに、皆が応えてくれる今のこの環境が──俺には心地よかったんだ。
「……これは、俺のエゴだ。
けど、付き合ってくれると嬉しい」
そう家族に告げた、その瞬間だった。
応接室の扉が、タイミングを計ったかのように音を立てて開いた。




