003
静かに前を歩くその背中は、鎧のきしみすらほとんど聞こえず、まるでそれが身体の一部であるかのようだった。歩き方にも姿勢にも無駄がなく、戦場で鍛えられた者の動きだった。
街の通りを抜けていく間、住民たちは遠巻きにこちらを見ていた。
さっきの騒ぎが広まっているのか、それとも単純に見慣れない姿が原因なのかは分からない。
どちらにせよ、好奇心と警戒が入り混じったその視線は、決して居心地の良いものではなかった。
「貴殿らの容姿が目立つせいだろう。私と一緒にいることも、その理由の一つだと思う」
アリステリアは振り返ることなく、淡々とそう言った。口調は冷静で、やや自嘲気味だった。
「……まあ、だから、気にするな。人によって見える世界も違うからな」
「ああ、よく分かるさ」
貴族と王族、そして民衆では、それぞれが見ている世界が異なる。
王族と貴族は利害が交わる分、考えが通じることもあるが、民衆とは隔たりが大きい。
民衆と貴族、あるいは民衆と王族が同じ考えを持つことは稀であり、三者すべての価値観が一致するなど、ほとんど奇跡に近い。
新しいものを受け入れる柔軟さは、貴族にこそ多く見られる。
王族は土地と制度に強く縛られるがゆえに、どうしても保守的になりがちだ。
一方で、貴族たちは教養や立場から、時に国の未来を見据えて変革を受け入れることもある。
俺が宇宙を統べていたころ、そこに王族は俺一人だけだった。
だからこそ、保守的になることはなかったが、かつて関わった王族たちは、国の利にならなければ絶対に首を縦には振らなかった。
それに比べて、貴族には自分が不利益を被ってでも、互いにとって良い関係であると判断すれば行動する者がいた。
民衆は……愚かであることが多かった。
「理解してくれて助かる。どうにもこの土地は排他的でな」
アリステリアはそう言うと、足を止めた。
「ここが、我が家の屋敷だ」
その言葉に合わせて、俺たちも足を止める。
見上げると、巨大な影のように建つ屋敷が目に入った。
風雨に晒された石造りの外壁は、長い時を経てなお威容を保っている。装飾は最小限に抑えられているが、その直線的で堅牢な造りが、むしろ“力”を語っていた。
建物は上下に幅を変えながら伸び、塔や砦が複雑に連なる構造をしている。
正面の塔は特に高く、周囲を一望できる見張り台の役割も果たしていた。
それはまさしく、実戦に備えた要塞だった。
俺が抱いた最初の印象は、それに尽きる。
門の上には、盾と槍を組み合わせた意匠が掲げられていた。守りと迎撃を示す、簡潔で無駄のない紋章だ。
「これがお屋敷なの!?
すごい立派ねえ……もはや、お城よね」
ミリアリアが金髪を揺らしながら、感嘆の声を上げた。
俺やレイはあまり感情を表に出すタイプではないから、こういうとき、彼女の素直なリアクションに助けられる。
その声を聞いていたのか、アリステリアがわずかに横目を向けた。
「そう言われると、素直に嬉しいものだな。ありがとう」
その口調は、これまでの硬質なものとは異なり、どこか柔らかさを帯びていた。
アリステリアと俺たちとの距離が、一気に縮まったように感じた。
ミリアリアは、本当にいい女だ。
何も考えてないように見えて、空気を和らげるのがうまい。
それが意図的なのかどうかは分からないが──場がふっと軽くなる。
……改めて、惚れ直すよ。
「ふふっ、どういたしまして」
ミリアリアは、アリステリアの感謝を、飾らずに受け取った。
アリステリアは目線を屋敷に戻し、何事もなかったように歩を進めた。
俺たちも、何となく頷き合って彼女の背を追う。
屋敷の前で、アリステリアは再び立ち止まった。重厚な門のすぐ脇には、槍を携えた門兵が一人、直立不動の姿勢で立っていた。
「通す。こちらは私の客人だ」
アリステリアが歩を緩めずに告げると、門兵はすぐに一歩前に出て、敬礼を取った。
「はっ、アリステリア様。ご同行の方々について、騎士長には──」
「その件は、後ほど私から説明する。いまは通せ」
「……かしこまりました」
門兵は頭を下げ、門の開閉装置に手をかける。
油の差された金具が低くうなり、ゆっくりと門が開かれていった。
開いた門の奥に見えるのは、先ほど見上げた威容そのもの。静かで、どこか張りつめたような雰囲気を湛えた石の館だった。
石畳を踏みしめながら、屋敷の中へと足を踏み入れる。
門を抜けた瞬間、外とは異なる、しんと張りつめた静寂が肌を撫でた。
まるで、この屋敷そのものが呼吸を止めているかのような、重く閉ざされた空気だった。
建物は広く、しかし簡素だった。
余計な装飾はほとんどなく、通路の壁には古い紋章と、丁寧に手入れされた燭台が等間隔に並んでいる。
この屋敷が「見せるため」ではなく、「使うため」に建てられたのだということが、ひと目で分かった。
「旦那様、私が秘書を務めますね」
レイがすっと前に出て、俺の隣へ並んだ。
どうやら、それなりに重たい話になると見て、秘書役を買って出てくれるようだ。
「そうだな。頼むよ」
昔からの付き合いだ。こういう場面でサポートを頼むなら、やはりレイが一番適任だ。
俺は一冊のノートブックとペンを取り出し、彼女に手渡した。
「……なんだか、懐かしいですね」
レイは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「そうだな」
その言葉を、否定することはできなかった。
王として君臨していた頃、こうして彼女に手伝ってもらう機会は幾度となくあった。
だが最近では──少なくとも、封印から目覚めてからは、そんな場面はまるでなかった。
「おっと……」「!?」
昔の懐かしんでいると、突然ミリアリアが俺とレイの間に割り込んできた。
両腕を器用に絡め、俺とレイの腕をそれぞれ引っ掛けてくる。
「なに勝手にいい雰囲気になってるのよ?
……私もまぜなさいよ」
「悪い悪い。そういうつもりはなかったんだ」
俺は、レイとミリアリア──ふたりを妻として迎えている。
レイとは付き合いがとても長いので、共に語れる記憶が数え切れないほど存在する。
一方で、ミリアリアとはまだ深く語れるような思い出が、あまりない。
だから、こうやって無意識のうちに、彼女だけを置いてけぼりにしてしまうことがある。
だから、少しでも愛情を示そうと、俺は手を伸ばす。
「シン様、お戯れはそのあたりで」
ミリアリアの頭に手を伸ばしかけた瞬間、背後からフェリスの声が飛んできた。
その一言に、俺の動きはぴたりと止まる。
ここは見知らぬ貴族の屋敷。装飾よりも実用を重んじた造りは、よそ者に対して歓迎よりも警戒を示しているようだった。
「……悪い、ありがとう」
フェリスの静止には、ただ感謝しかなかった。
愛は時に人を狂わせるというが、そこまでではなくとも、感情が先行していたのは確かだ。
それが悪いとは思わない。むしろ、そんな状態を幸せに思える自分がいる。
だが──何事も、節度というものは大事だ。
「ダンジョンから来たというから、どんな者かと思えば、我々と大して変わらないのだな」
アリステリアはそう言いながら、俺たちの様子をちらりと見た。
「そう見えるなら、多少は得をしてるかもな。少なくとも、“人間に見える”ってことだ」
俺が肩をすくめると、アリステリアはわずかに口元を緩めた。ほんの一瞬の、それでも確かな変化だった。
やがて俺たちは、アリステリアに導かれて建物の中へと足を踏み入れた。
内装にはいくつか装飾品も見られたが、どれも決して華美ではなく、屋敷の外観に通じる無骨な趣を損なわない範囲に抑えられていた。
廊下は基本的に一本道で、ときおり脇道が分かれているものの、特に寄り道することもなく歩き続けた。
「ここだ」
アリステリアは、廊下に並ぶ扉の一つに手をかけた。
その先に広がっていたのは、ひときわ広い応接室だった。




