192話
朽ちかけた障子の隙間より、夜の月はひっそりと覗いておる。外気の冷たさは、格子の向こうから忍び入り、畳の上に白く冷たい息を落とす。
座敷牢の中は、静寂が淀む小さな沼のよう。奥の壁には、削り取られたような爪痕が幾筋も刻まれているが、それさえ今は月に溶け、影と化す。
ときに、格子の木目を伝い降る夜露が、一筋の音を立てる。その滴る音は、まるで外の世界との細い糸のように頼りなく、儚い。
月は高く、澄みきった光を投げかける。その白さは、牢の内に漂う吐息を淡く照らし、隅々まで透かし見んとするかの如し。
外には、霧が足音なく庭を這い、松の葉をわずかに鳴らして過ぎていく。夜虫の声さえここには届かず、ただ銀の静寂のみが漂う。
もし、誰かがこの月を仰いでいるならば、その胸奥に渦巻く思いは、牢の影に溶け、月に吸い取られてしまうかの如し。
それは言葉にもならぬ声、形にもならぬ手向けとさえ心内、人知れず想う。
今宵、月はただ白く、冷たく、座敷牢の上に冴えわたる。
誰がそこにいるとも告げず、ただ、沈黙のみを映し返す。
「我が内なる『慈』とは何ぞや……これは……誰が徳にてあるや……わからず……なにゆえ『慈』は我が内より芽吹かんとするのか……? いや、芽吹くと申すよりも……むしろ、いにしえよりここに在りしものの如く……」
宿清は独り、座敷牢の中で座し、解を得るため苦悩を強いられていた。
「お雪殿、灰塊殿、零闇殿、孤風殿、現路殿……それに秋架殿、幸吉殿、伝八殿、神座殿……そして世實代殿……いずれも違う」
壊れていく清。
「それより……根音、根子は無事にてあろうか……。たしかに二人は花護人にて候えど、されど、これにより悟りしことあり。日々、常に側におる所以、これなるがために虚しきものと相成りし。我が身の傷痕、二人あればこそ鎮めらるると申したれど……しかるに、この傷痕、二人なくとも裂け落つることなし。さすれば、二人なくとも、我は……死することなき現なり。二人は何を知るや……いや、二人のみならず、花天照をはじめ、花護人らは、いかなることを我に秘め隠すや──」
清は顔を抑え、畳に伏せる。しかし憎悪は沸かず。憎悪が沸くのは姉、静のみ。
「なにゆえじゃ……我は花護人らに裏切られしはずなるに……何ゆえ、憎悪の念ひとつ湧かぬのじゃ……我は、いずれを信ずればよい……信ずるべきは、いったい何にあらむ……」
──げに私は何者ぞ……私は……おぞましき者か……我は花仕舞師値せず者か……花神威ノ命さま……──
格子越しの月は何も語らず、ただ残酷なまでに清を照らすだけの仄かな灯りだった。