191話
蒼き月光は、山の稜を淡く撫で、白妙の霧を夜気に溶かしておる。霧はたゆたう魂の衣のごとく、川面を這い、森の奥へと忍び寄る。
苔生す鳥居は、遥かなる時の深淵に立ち、誰も知らぬ夢の入口を守るように佇む。そこへ寄せる風は、古の詠の余韻を秘め、わずかに葉を揺らすたびに、声なき呼び声を散らす。
竹林の影は夜の帳と溶け合い、幾重にも重なる深き黒は、あたかも幽世の底を覗かせるかの如し。笹のざわめきは、遠き時の響きをまとい、幾千の祈りを囁いては、闇へと沈んでゆく。
野の花は、露をまとい、月光をその身に宿す薄氷の灯。けれど、ひとたび風が撫でれば、その微かな光は幻のように揺らぎ、夜の深みに呑まれて消え入りそうなほど儚い。
川のせせらぎは、ただ銀糸のように細く、絶えず、絶えず、夢の縁をなぞる。
まるで人の思い残した残響が、霧に溶け、露に溶け、時の彼方へ送り届けられるように……
あたりは沈黙に満ち、すべてが現世のものにあらず。音もなく、声もなく、それでもなお息づく気配は、幽かに、確かに、夜の底に潜む。
静は一人、幽玄見惑うほどの現世に佇む。
「あの時の花結……『恨むも良し、泣くも良し、恐れも良し──されど、最後に戻るはやさしの抱擁。これぞ、命を繋ぎ、輪を結ぶ証』、なぜにこれを我はあの時、告げることができなかった……なぜに……なぜに……」
この長き旅路。痛みを伴い、惑い、悔やみ。あの涙と詞に、静は後悔の波に押し潰されそうになりながら、独り言のように、遥か昔に感ずるあの刻、『慈』の徳を持つ者に告げることができなかった花結の詞を、またぽつりと呟いた。
「また、思い出されているでありんすか?」
花化従が月光うっすら届く闇から、声をかける。
「なに、わずかばかりの戯れ言……ただ、怖いのじゃ……久遠獄はいと恐るるにあらず。ただ、もし、あの涙と詞を再び聞いてしまえば……我はまた……。両親殺めてまでここまで来たが……未だこの想ひが我を苦しめる」
花化従は高く上る月を見上げる。
「静さま……安心なされるでありんす……両親殺めし、あれは現世では赦されべからずこと……しかしながら、それでも、すべてを本懐のために進む静さまならば、その赦されべからずことさえ、本懐の花咲く肥やしとなりましょう。……誰がわからずとも我々、花傀儡は、みなわかるでありんす……例え、『慈』の徳持つあやつが契によりわからずとも……」
「花化従……」
花化従は静の左手を取る。さらし布でぐるぐるに巻かれ隠された花紋様が浮かび上がる左手。人非らざる花化従の手は本来冷たきもの。しかしながら、なぜか血の通った人の如く温かく感じる。
「静さまの徳は『愛』でありんす。傷つきぼろぼろになられてもその道進む潔さ。誰が真似できようか? 誰も歩けんでござる」
花化従は天に指差す。
「さあ、静さま、笑うでありんす……花仕舞師は笑うが花でありんす。例え、静さまの命があと幾ばくかの刻であったとしても……」