182話
灰音郷──
霧が重く降り積もるかのように、空気は湿り、肌をかすかに叩いてくる。昼であるはずなのに、空の光は灰の膜をかぶせられたように鈍く、辺りの輪郭はかろうじて霞の向こうに漂うだけ。
村人たちはその音を「灰音」と呼んだ。この名は、かつて一人の男が岩壁を削る音に由来する。
カーン──カーン──
薄霧が絶えず流れる深い谷間で、その澄んだ音は朝も夜も、昼も闇もなく、響き続けていた。霧深い谷に響く音は、人々にとって恐れと畏敬の象徴だった。「灰音」と呼ばれたその音は、人の世の喧騒とは別次元にある、ひとりの男の魂の叫びであった。
しかし、今、その音は止んでいる。その岩を打つ音は二度と響かなくなった。霧が深い日は、まれにその音がわずかに蘇ると伝わる。それは耳で聴く音ではなく、胸奥を突く微かな震え──義に迷い道を選ぶ際に、その「灰音」を感じ取れたと言う。
──その灰音の音を刻んだ者この灰塊その人。かつて「首斬りの灰塊」と尊敬と畏怖の念を込め、そう呼ばれた男──
足元に敷き詰められた岩は、どれもひび割れ、苔を抱え、所々に濡れた痕跡が滲んでいる。一歩進めば、冷たい水音が岩の間から微かに鳴り、それは人の声にも似た──呻きのような音に聞こえる。
ゴォォ──ゴォォ──
遠く、岩壁をかすめる風が唸る。それはまるで亡霊の泣き声か、断末魔の叫びのようでもある。けれど今、その音は失われ、残されたのはただ、己を喰うように反響する無音の音──「無き音」。
周囲に咲く白い野花は、まるで死装束の端布のように揺れている。その花の根は浅いのに、霧の湿りに抱かれしがみついて生きている。
一歩踏み込むたびに、過去の魂が足を捕まえようとする。「お前は進めるか?」、「その徳を示せるか?」声なき声が岩間に響き、霧に溶ける。まるで討ち貫いた『怯』の干からびた手を持つ亡霊が未練がましく憑いてきたかのよう。枯れ枝のような細い腕を伸ばし、待ち伏せしている。しかし、世實代はそれを容赦なく踏みつけていく。惑うことはこの郷では命とり。ならば進むしかない。
「ここで父上は……惑い己と戦ったのか……誰にも知ることのない己の心の中の戦いを……」
崩れそうな道なき道を踏みしめる。
「ほんによござんしたか? 母上君を残して……戻れぬ道かも知れぬ場所であるのに……」
清が慈愛に満ちた母のように世實代に聞く。
「それだけが心残り……母君に恩も返せず……しかし、いずれ仕舞われる身ならばこそ……信じたい道を行きまする」
目指すは灰塊が住まっていた石造りの小屋。そこにはあの日、灰塊を仕舞った日以来、刻が止まったままのようだった。だからこそそこを訪ねる意味があると世實代は心に刻んでいた。