175話
「おやおや、惨めな姿でありんすな……」
見下ろすが如く冷たい言葉を容赦なく投げ掛ける花化従。
「……」
世實代は何も言い返せない。気弱な性格を心の底から炙り出させる存在。
「まっこと、父親と幼げにしたような顔。そして父親ゆずりの腑抜け……笑いが止まらぬでありんす」
「な、何を……」
父親を馬鹿にされ世實代の幼き逆鱗に触れ、言葉を吐き出した。
「言葉を慎め──花化従よ」
漆黒の闇を切り裂く、一筋の閃光。その光は、日中の陽差しを塗りつぶし、大通りを行き交う人々の目を奪った。空気がざわめき、そして一瞬にして凍りつく。ただ一人の存在が、世界の呼吸を支配したかのようだった。
道の彼方から、漆黒の着物をまとった「彼女」は現れた。夜の帳を思わせるその深みは、あらゆる光を吸い込み、色彩を喪失させる。日差しが白く弾け、影は深い墨のように伸びる。その白と黒の間に、彼女だけが佇む。
金糸銀糸の刺繍はなく、目を引く装飾もない。ただ、そこにあるのは、研ぎ澄まされた闇。なのに、その漆黒は、誰よりも鮮やかに世實代の網膜に焼き付いた。彼女が歩むたび、乾いた石畳が、まるで生命を得たかのように微かに震え、響く音は、下駄の音とは異なる、地の底から湧き上がるような深遠な響きだった。世實代の視線は、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、彼女の足元から離れられない。
「……」
言葉を呑む世實代。漆黒の着物の裾が、風もないのに、ゆらりと揺らめく。その動きは、まるで世界が彼女の意思によって呼吸を変えたかのよう。彼女の周囲だけが、時間の流れを歪ませ、あらゆる喧騒が吸い込まれていった。
顔を覆う深紅の口紅もなく、派手な簪もない。ただ、その白い肌は、あまりにも静謐で、感情の微塵も感じさせない。まるで、生きる喜びも悲しみも、全てを超越した存在。しかし、その瞳が、人々を一瞥した瞬間、内奥から迸る無限の「知」と「力」が放たれ、見る者の魂を容赦なく射抜いた。それは、恐怖や畏怖を通り越し、己の存在そのものを根底から揺るがすような、絶対的な認識の揺らぎ。世實代は言葉を失い、ただその場に立ち尽くす。彼女が放つのは、神が宿るとされる「徳」ではない。
まごうことなき人でありながら、その存在は、この世界のあらゆる摂理を逸脱し、概念としてそこに在る」かのようだった。
その場に居合わせた全員が、自分がこれまで生きてきた世界が、いかに矮小で、無知であったかを悟らされる。世實代の心に刻まれたのは、彼女の姿そのものではなく、「理解できないもの」に直面した時の、知の限界と、存在の無力感。
そして、彼女は一切の表情を変えることなく、その場に静かに佇んだ。世實代は彼女の存在が、もはや物理的な質量を持つ「人間」ではなく、世界の理の一部としてそこに縫い付けられた絶対であるかのように感じていた。
周囲の空気は重く、そして透明な膜で覆われたかのように張り詰めている。世實代は息をすることも忘れ、ただその「存在」から発せられる見えない圧力に、さらに魂を支配されていた。
「口が出すぎました。許してたもれ、静さま……」
花化従は頭を垂れた。
世實代には先程まで圧倒された花化従の存在が、漆黒の着物の女性により、目の前の礫のように小さく霞んでしまった。