174話
「母上、なぜ父上は戻りませぬ。納得いきませぬ……」
世實代は声を張り上げ、幼いながらも言葉を振り絞った。
母、菊は首を振った。
「世實代、あの方は心が折れてしまわれた。「家内の者どもに顔向けができぬ」と出ていかれたのです」
「なぜですか? つまり父上は尻尾を巻いて逃げ出したということでございますか?」
世實代は泪目になり、菊になお、食い下がる。
「世の移ろい、まこと無常と知りなされ、世實代!」
菊はたまらず、声を荒げる。
「余は探しに参ります! 逃げるは恥でございます……」
世實代は飛び出そうとする。
「お待ちなさい。それがしが何ができまするか! 世實代は数えてまだ八つ。待ちなされ──」
菊の言葉を背中で聞きながら無鉄砲に飛び出した。
「おい、あれ十執刀家の倅じゃないけ? よう、のうのうと町中歩けるな」
町民がひそひそと陰口を叩く。
──また、陰口を……それに決まって……──
「おい! 人殺しの倅! はよ……お前もこの町出てけやぁ」
「何、平気で歩いとるんや!」
世實代は罵声を浴びせられる。
「痛っ──」
礫が世實代の額にあたる。額から血が滲む。世實代は俯いた。
「悔しかったら、なんか言い返してみい?」
世實代は唇を噛んだ。睨むことも言い返すこともできない。
「腑抜けが──」
囃し立てられ、もうひとつ礫が飛んでくる。また、額に直撃する。何も言い返せない己が腹立たしかった。
──なぜにこのような仕打ちを受けなければならぬのだ?……父上……──
小さいながらも、『十執刀』の性に誇りを持っていた。しかし、今は呪いさえすれど、誇りは影も形もない。あるのは目の前の礫。やるせなさに瞳に泪を浮かべる。
──「世の移ろい、まこと無常と知りなされ、世實代!」母上……納得できませぬ。これでは表通りもまともに歩けませぬ──
カタン──ズゥ……カタン、コトン、スッ……
カタン──ズゥ……カタン、コトン、スッ……
音の中に、凍えるような冷たさと、どこか湿った悲鳴のような余韻が滲んでいた。世實代の足にその音が絡み付く。重々しい下駄を引きずるような音が聞こえる。その重々しさに泪が渇いていく。それが世實代に近づいてくる。俯いた視線に一尺余りの三枚歯の下駄の姿。幼い世實代には異様に思えた。ゆっくりと視線を上げる。その目線の先にある姿は別の世界の住人。世實代はそう感じた。
昼日中の大通り。白く光る石畳に、ふと一筋の風が走り、空気に張り詰めた静寂が生まれる。そこに現れたのは、百花の王とも呼ぶべき気配をまとった一人の女。
紅の打掛には金銀の糸で精緻に縫い込まれた牡丹と菊が咲き乱れ、陽光を受けてまるで生きた花が咲き誇るかのように眩しく輝く。その背に垂れる「だらり帯」は、彼女らのみに許された証。
昼の風をはらみ、ふわりと揺れるたびに気品の香を散らし、周囲の者たちは思わず息を呑んだ。先程まで囃し立ていた連中は言葉を出せない。
漆黒の髪は高く結い上げられ、金細工の簪や真紅の玉飾りが高貴な光をまとい、鈴の音のように微かに響く。
真白の肌は日差しに照らされてもなお曇らず、むしろその白さは天上の月華を思わせ、視線を許される者は限られているかのような威厳を漂わせる。
カタン──ズゥ……カタン、コトン、スッ……
下駄が鳴る音はまるで神楽の拍子のように神秘的に響き、石畳に踏まれるごとに一瞬の神域を創り出す。人々は誰ひとり声を上げられず。 ──やがて女が静かに首を巡らし、深紅の唇にほのかな笑みを乗せた瞬間、陽光さえも女の行いを讃えるように柔らかく降り注ぐ。華やぎと妖艶さの奥に宿る、圧倒的な気高さと無言の支配力。
世實代が心の奥底に「触れてはならぬ聖域」を直感しながらも、抗えぬ憧れを半ば強制的に覚えさせられる──それが、花化従という存在の真骨頂だった。