171話
天器ノ匣社での一件以来、清は口数が少なくなった。
──『人に非ず』……されば、我はいかなるものなるや……?──
月灯りに照らされる一室で思い耽る。思い当たる節は幾度もある。まず、『死』に対し、恐れを抱かない。いや、『死』を感じると無性に高揚感が増し、時に無意識にその道を歩もうとする。灰音郷の崖にて、自ら足を踏み外そうとした時、崩れ落ちそうな礼尊寺での零闇との対峙の時もそう、囚われの現路に会うために守衛に囲まれた時、秋架を守るために矢が雨の如く降り注ぐ中、駆け回った時、そして、天器ノ匣社へ続く石段から足を踏み外そうとした時……。すべて『死』を感じると身体の中から何かが沸き上がり、『死』を受け入れようとする。
──我は……果たして死を希うておるのか……?──
月灯りが障子を透かし、座敷にほの白い霧のような光を敷いている。清はそっと吐息を洩らし、薄い桃色の小袖の襟元に指を滑らせた。桜の花びらを思わせるその色は、灯の下ではほのかに頬を染めるように柔らかく、月の光を浴びると、さらに一層艶やかな気配を放つ。赤い帯は深い紅のように艶めき、女の細腰を鮮やかに締めていた。その帯を解くとき、女は小さく肩を揺らし、結いをほどいた薄く赤毛た髪がゆらりと胸を撫でる。帯はするりと畳の上に流れ落ち、まるで散る花びらのように息を潜める。
襟元をそっと開けば、白い肌が月光をまとい、夜気に触れてわずかに震える。桃色の布がゆるやかに肩先から落ちると、その下に現れた白襦袢は、月に溶けるほど淡く儚い。
腰紐を外すと、襦袢もまた静かな水音のように足元へ滑り落ちた。背には月の冷気がそっと寄り添い、細やかな鳥肌が浮かぶ。
清は小さく吐息を洩らし、胸に巻かれたさらし布をほどく。片手で胸を覆いながら、静かに一歩踏み出す。
瞼を伏せたその面持ちは、羞じらいと覚悟が混じり合い、艶やかながらも一幅の絵のような静謐さを帯びていた。薄桃の布、紅の帯、白い肌が、夜の帳に溶ける。
しかし、ただそこに残る痕により、すべてが憎悪に覆される瞬間──。
身体を覆い尽くすような傷痕。礼尊寺崩壊時、垂木に貫かれた痕、秋架に寄り添う時に幾重も突き刺さる矢の痕、そして最も憎むべき、心の臓へと繋がるような刺し傷痕。
「姉さまに刺された傷痕……これが我を憎悪に突き動かす。この傷痕を見るたびに憎悪が増す……しかし……」
──なぜ、我は死に導かれず、こうも命の鼓動が動く……──
「はははっ──さもあらば……この傷痕に手を突っ込み、心の臓を抉り取らば……或いは……」
またしても、高揚感が沸き上がる。そのまま指に力が入っていく。傷痕に指が近づく。
「清さま──! 何をなされておる! いけませぬ!」
激しい口調の言葉で動きを止める根子。清の腕を力の限りぎゅっと掴み、止める根音。清は二人を見つめる。目元から雫が溜まり言葉が溢れる。
「根音、根子……常にこの衝動を鎮めてくれるのだな……そなたらは、いつも見守りおられるのだな……」
月灯りに照らされ、立ち尽くす清は雫を、すうっと静かに溢した。