163話
「申し訳ござらん……それがし、清めの刻なり。失礼する……」
神座は逃げるようにその場を離れた。
──それがしはなんのため……なんのためにこの場にいる……それがし畏れ多き神に、花神威ノ命さまに使える身、それが、なぜ疑いを持った? 清めねば、この身体も心も……『哀』という穢れに染まったそれがしを……──
天器ノ匣社裏手から、細い道を抜けると岩屋がある。すっぽりと暗闇が口を開ける。注連縄に紙垂が揺れ、「はよう清めろ」と言わんばかり。奥深く闇を進むと水が滴る音がする。その響きの調子が進むほど上がる。さらに奥に進むと激しく落ちる音が耳を焦がす。そして闇を抜けると、目映き明かりに水滴の雫が舞い、陽に照らされ七色に輝き、虹を幾重にも架ける。
ドオォォォォ── ドオォォォォ──
激しく天より、穢れを払えと言わんばかりに怒号のうねり。代々、天器ノ匣社に使える巫女が身心を清める神聖な場所。花祓ノ滝。花のように虹が拝める場所としてその名を冠するが、それは名ばかり。ゴウゴウと滝口から滝壺まで直瀑する瀑布に身を置けば、身体は凍てつき、心の臓まで凍らせる。水流の凍てついた矢の如く身に突き刺さる。生を削り取り、命に結びつけた糸が、その綻ぶまでいった先に、命の有り難みを知る花祓ノ滝。その冷たき飛沫を浴び幾重の日々を重ねて清める。それは季節問わず、繰り返す。
「早く、清めねば……」
神座は巫女装束を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になる。肌は白く美しく、ほどよく膨らんだ胸も魅力的。しかし、当の本人は穢れた身体と呪う。そしてその穢れを払うため、迷わず凍てつく濁流に足を入れる。いつも以上に凍てつく。それは穢れに身を委ねたからだと神座は言い聞かせ、天高くより落ち、打ち付けてくる瀑布を見上げ、身を委ねようとする。
──あぁ、穢らわしき身体が浄化されていく……──
凍てつく身が浄化されていると感じ、進む。花祓ノ滝は一点を突き刺す如く直瀑の滝。その滝壺に身を任せ、神座は手を合わせ、花神威ノ命に許しを乞う。
「我、穢れし心と身体、清め給へ……我、まこと御身元の従者なり、この迷い許し給へ……許し給へ」
祈りは何時間も続いた。
「きっと我、永久に赦されぬ。ならば……このまま……ここで赦しを永久に……ね……が……」
神座の意識が遠退く……。
「神座さま……しっかりなされ……」
神座の元に飛び込む清。顔は青ざめ、対峙した時は、ほんのり薄紅をひいたように赤らめていた唇も今は黒みがかった紫に染まっている。体温は感じない。
なんとか、神座を引き上げたが徐々に体温はさがっていく。
「なんとしたことか……手前の従者に焔を操れる者はおらぬ……このままでは……」
その時、ぽっ、と温かみが広がる。
「これは……まさか……花焔の焔……」
振り向くと花焔が舞い、焔を滾らせている。
「なぜ、花傀儡の花焔が……ここに……?」
「なに……静さまの情け……他意はござらん……しかし、人に非らざる者、神に非らざる者……いささか滑稽給わりなき……」
そう花焔は言い残すた焔を残し消えていった。