162話
地の冷たい熱が頬に伝わる。目がゆっくりと開き、外れた金飾りが目の前で輝く。人の気配を感じる。思考が頭を巡る。
──これは、人々の気配? この誰も訪れぬ地に……いや、人々と言うには人は一人か?──
神座は起き上がる。そこには先ほどまでの神々しき気はない。ただ純粋という言葉が似合う程の出で立ち。
「そなたらは……この天器ノ匣社に何用ぞ。注連縄に紙垂により、立ち入りを禁じていたはず。畏れ多い」
声を微かな震わし、目は怯えている。しかし、そこにあるは神への信仰。だが、神座の左手の甲の花紋様は先ほどより、くっきりと浮かびあがっていた。
「でき損ないよ……わかるか? そこにあるのは、もはや神ではない。神の器のみ。すべからく神に『畏』の徳を持つ者、そして成れの果て、『哀』を抱く者。畏れから生まれる深い感情。尊厳への畏敬が、失われたときに生まれる絶望感を持つ者なり」
静はそう言い残し、花化従を従え、背を向ける。
「神座さま……また会いに参ります。その刻は近い。でき損ないよ、『畏』の徳、輝かせるか……それとも『哀』に沈めるか、お前のくだらぬ本懐でどう応える?──はははっ……」
静は高笑いしながら、消えていく。
「待て……姉さま! それは、なんとしたこと……」
清の言葉に振り向くこともしない静。
「また、参る? 何用ぞ……そなたらはなぜに禁断の地に足を踏み入れる? この地に奉られる花神威ノ命さまに対する冒涜か!」
その声には微かな震えが混じり、目は怯えていた。先ほどまでの出来事が、彼女の記憶からは完全に抜け落ちているようだった。
「手前、宿清と申しまするは、神座さまを花紋様の導きにより、花仕舞師として仕舞いに参りました」
「花仕舞師か……、花紋様が我に……そうか、とうとう信ずる花神威ノ命さまにも見放されたか……」
目を伏せる神座。
「それは信仰とは関係なきにございます」
清は言葉を挟む。
「なんと無礼な……それがしには到底看過できませぬ! 畏れ多くも、神々を冒涜なさるとは……! まこと哀しきかな。それがこの天器ノ匣社の廃れた姿、汝の心の如くなり」
「ならば問います。それほどの信仰をお持ちで花紋様が現れますか? 先ほど見放されたと嘆かれた。疑いをお持ちなのでは?」
清は神座の一喝怯まない。
「疑いなど……断じて、持っておらぬ。それがし、この花神威ノ命さまに身を捧げた身。ならば花紋様も神の采配」
互いに一歩も引かない。
「このように、朽ち果ててゆく社にて信仰、耐ゆる姿、称賛の値。しかしながら廃れたのは刻の流れか、人の怠慢か……それとも囚われた『哀』なるせいか……」
根音と根子は『畏』に反する『哀』に導く如く語る清に静を重ねていた。
パキンッ──
神なる器と謳われた巫女の心に皹が入った刹那だった。