16話
根音と根子は清に寄り添い休ませ休ませ崖の峠を越えた。その間も硬い岩を切り出す音が聞こえやがて聞こえなくなった。深い霧に包まれ辿り着いた先は灰音郷。神秘的な名前とは裏腹に灰色の岩肌が多く、一歩踏み込めば位置感が狂うほど霧が常に低く立ち込めている。
ゴリッ──ゴリッ──
硬い何かを削る音が霧を含んだ風に運ばれてくる。霧がわずかに動いた。何かが呼吸をしているように、揺れ動いている。そしてその霧の奥深くで、削る音が一層濃く響く。
「清さま……あれを御覧じませ……」
目の前には霧でぼやけた火の気も灯らぬ石造りの小屋が姿を現した。
「まるで死者の怨念が疼いておるかのようじゃ……」
清は呟いた。しかし。その穢れを含んだ淀んだ空気を心地よく感じていた。
「これは……過去に囚われし者どもの声が、われが胸に巣くう憎悪をなお掻き立てておる……」
──宿静、私の姉にして醜い一族の穢れ──
清は胸元に手を置いた。
「清さま……胸元に御手を添えられてはなりませぬ!」
またもや根子が刺さる声をあげる。
「相も変わらず……まるで厳しき乳母のごとき口振りじゃの、根子は……。されど案ずるな、痛みは覚えておらぬゆえ……」
その言葉に根音が口を挟む。
「痛みが無うとも、瘴気に当てられては治るものも治りませぬぞ」
「根音も……そなたらも……われは平気じゃ……何ともないゆえ……」
しかし、清は二人の言葉を素直に受け入れ胸元から手をそっと離した。
──忌々しい傷のあと……なぜこの傷は塞がらぬ……──
清の記憶はいつも、ここから始まる。それは禍々しい光景を甦らせる。人の皮を被った物の怪。例えるならばそれが一番相応しい。その後に残った悲劇。語るには何かを贄に捧げなければ鎮まらない気がした。
「清さま……これより会い申す御方の御前にて、さようなお顔なされてはなりませぬ」
根子が助言をする。根子の言葉に慌てて顔を両の手で隠す。
「すまぬ……根子。されば、然り。これより参る者もまた、過去を背負う身。われがこのようにては、祓いの舞も乱れてしまおう……」
清は息をふっと吐き、清が胸元に手を置こうとすると、霧がわずかに濃くなる。まるで清の内側に眠る何かが、この地と呼応し始めているかのように。
「清さま……!」
根音は清の手を瞬時に掴み、ゆっくりと首を振った。
「左様であったな……すまぬ、根音。つい、手が勝手に胸へと……」
清は今一度、迷いを振り払った。
「さあ、参ろうぞ。心を囚われし者のもとへ……」
清たちは石造りの小屋に入っていく。中は薄暗く何体もの石を削って作られた地蔵がある。みな微笑みを浮かべている。その奥、仄かな行灯の灯に照らされ、人影が揺れていた。
ゴリッ……ゴリッ……
削るのをやめない人影は手を止めずに低い声で唸った。瞳は地蔵とは真逆に怒りの形相。
「ここはおなごや童子の来るところにあらず……。早々に立ち去らるるがよかろう……」
三人に目線を合わせるでもなくその人影、屈強の男は硬い石を削り続けた。