159話
目の前には高く聳える、霊山。しかしながら山頂付近、霞む霧はまるで、曇天覆いかぶさる様。閉ざされた門のように清たちを拒む。そこに天高くまで聳えるが如く、石段が現れる。
「この高みに至る石段、登りつめた先に……仕舞わねばならぬ者がおる……」
清は一歩、階に足をかける。ただ一段登っただけで、気の音が変わる。また一段上がると気の色が変わる。また一段、気の薫変わり、一段、気の味が変わる。次の一段で気の温みが変わる。見上げればそこは終わりなき段が永遠に続く気配。体力、気力をことごとく削る。それでも、清は登り続けた。
「これしき……躊躇うべきに非らず」
清は何段、足をかけたか覚えることのできぬほど登る。音も色も薫も味も、そして温みも無になる。試されている感覚だけが残る。
ふいに、清は振り返る。底知れぬ靄の海が広がっている。
──このまま堕ちてゆけば……どこぞの世界に繋がるか? 現世? 幽世? それとも……──
清は自然と足をゆっくりとずらしていく。
──堕ちたい……このまま……──
またしても、突然の死の衝動に駆られる清。そのまま目を閉じ、ゆっくりと身体を傾けてゆく。
──あぁ、堕ちる、なんという快楽……──
「清さま……!」
がっしりと、根音、根子が清を支える。根音がそっと根子に耳打ちする。
「清さま……大丈夫じゃろか? この調子で、あの者に会わせれば、裁きに合うこと間違いなしぞ。そうなれば俺らじゃ、どうすることもできぬ。たとえ花天照でも無理じゃ。なんせ、人にして、人に非らず。神の器、巫女、神座には、誤魔化せんぞい」
「そんなこと……承知じゃ。じゃけど、主、清さまが強く望むなら、これまた、うちらに止めること無理じゃ。行くも地獄、行かずも地獄……」
頭を抱える根子。
「何を騒いどる? 根音、根子……」
正気を取り戻した清は、騒ぐ二人に声をかけた。
「なんでもありませぬよ。ただ、腹が減ったと根音が騒ぎよりまして……ほんま、根音はガキでございます」
根子が取り繕う。
「なにを跳ねっ返り!」
根音も合わせる。
「ほんに、ここまで来て、また喧嘩かえ? およし! それに、ほれ、二人とも、本堂、姿、現したぞ」
そこに在るは、天を突き破らんとそびえる古の社、本堂。幾重にも重なる屋根は苔むし、深い翠を宿す。瓦の割れ目からは細い草が顔を覗かせ、時を超えた静寂の中にひそやかな命を息づかせている。木組みは幾百年の雨風に晒され、黒ずみ、ひび割れ、時に朽ち果てた柱が骨のように突き出している。それでもなお崩れず、ただ厳かに人々を見下ろすその姿は、信仰と畏怖が重なり合った記憶の結晶のよう。
奥に鎮座する扉は、薄墨色に変じた檜の板が幾度も修復され、古びた鉄の金具には無数の祈りを刻んだ爪痕が残る。風が吹けば、屋根の鰹木と千木がわずかに鳴り、まるで神の呼吸を思わせる音が境内に満ちる。天井からは垂れ下がる幾筋もの注連縄が重く揺れ、破れかけた紙垂が静かに震えるたびに、無言の神威が人の心を押し潰す。
ここは、誰が呼んだか「忘れられた神域」。古びたがゆえに、なお一層、存在感は峻烈。
──この社、本堂こそ、刻を超え、人知れず息づく神の容れ物。これから千年、万年、刻が経とうとも、崩れること想像つかぬ、天器ノ匣社。