145話
琥太郎の前に突如影が盾になる。言葉は血の風とともに舞う。
「あはは……やはりだめですね……私は、忍も母親も失格ですね……」
「夜月ぃぃ──!」
声が自然に喉を這う。暴れだす。口を無理やり開かせた。
手を広げ、庇うように全身に矢を受けた夜月。自然に身体が動く。背の痛みなど関係ない。夜月を抱き抱えたまま、まるで流水が隙間を見つける如く敵陣の手薄な道筋を走る。風と見まがうほどの早さ、そして人ひとり抱えたままの動きは人に非らず。兵たちの心に芽生えたものは「前に立ちはだかれば切られる」という恐怖だった。
「おかしいな……心の臓を突き刺したはずなのに……わずかにずれたようですな……なおさら忍、失格……」
夜月の声はか細くなる。
「しゃべるな!」
敵陣の最中、縫うように走り、暗闇を味方にできるまでの距離を見つける。
「追えっ! 我に恥をかかすな!」
背中から笹虎の叫び声が聞こえる。しかし、琥太郎は見向きもしない。やがて二人は闇に消える。笹虎の軍勢は……琥太郎の鬼気迫る逃走という戦いに敗れた者のように静まり返っていた。
辺りを見渡す琥太郎。敵の姿を確認できない。
「夜月……なぜに……お前は、このようなことを……」
肩を震わせる琥太郎。
呼吸を荒くしながら夜月は、なんとしても琥太郎に伝えようとした。
「琥太郎殿、私は忍として小ころから鍛練し、育てられてきた。これが私の道筋と覚悟して参った……し、しかしながら緋美が生まれ、母としての愛を知った。緋美と穏やかに暮らしたいという淡い想いが産声をあげた。ただ、私は忍。掟として死ぬまでそれを許されない……そんな時、あの笹虎の遣いが影ながら私に近寄ってきた……「間者となれば我が領土で庇い自由にさせてやる」と……」
夜月の目の光が消えていく。
「もう、語るな……夜月よ……帰るぞ……帰るぞ……緋美の元へ……」
手をしっかりと握る。それでも夜月は止めない。
「私は母として……緋美とやすらかな道を選ぶ決意をし、モノノ怪にすべてを奪われた。それが……里を裏切り、私ども母子に心底愛情を注ぐ琥太郎殿を裏切ることと知りつつも……」
「もう、良い……もう……語るな……」
「赦してたもれ……私は『罰』を背負うがかまわぬ……しかしながら娘、緋美だけは……何卒、何卒情けを……情けをかけてくれぬか……」
かすかに映る琥太郎の顔を見つめながら、襟を掴む。
「もう……しゃべるな……緋美は我が護る……夜月の想いまで背負い……」
「恩にきりまする……琥太郎殿……そしてどうか裏切り者の母とだけは……このことだけは誰にも口を開かずにお願いした……い……」
この言葉を最後に呼吸音を繰り返すだけになる夜月。
ヒューヒュー……ヒューヒュー……
「夜月……夜月ぃぃ──」
すでに言葉は届かない。すでにこのまま苦しみながら死を待つのみ。琥太郎は忍刀を夜月の喉元にあてた。
上弦の月の元……静かに散る飛沫はただ二人のみが知る。その飛沫は月に照らされ緋色に染め上げていた。