139話
「緋美……待たせた……どうだ? 稽古ははかどったか?」
「はい……母上……見てはくださらぬか? 私の喜劇……」
「喜劇? 喜劇とはなんぞ……この段取り……悲劇と呼ぶに相応しく、喜劇とは呼ぶには遠い……」
紅花は戸惑いを覚えたがかまわず緋美は無言にて答えず役柄を披露する。それは今までにない迫真の演技。秋姫の笑みの中の悲哀の目は魂宿るもの……それはあまりにも美しく、それでいて哀しい。次々に紡ぐ台詞は何人も寄せ付けない重みがずしりずしりと心に響く。
それは紅花の演技しかり、想いさえ凌駕する。
「どうした? 緋美……そちの役柄をあまりにも先ほどまでと違いすぎる」
緋美は冷たい表情を浮かべる。
「なにまことに難なきこと……母上さまが逝った事実を心に留めれば演劇などいとも容易くこなせるということです」
異様な変わりように背からえも言わぬ汗が流るる紅花。
「母上……演劇とは難しきことなきこと、悟り申しました。壇上、上がること……楽しみにございます。他の台詞も噛み締めますのでこれにて失礼するにございます」
「緋美……」
手を伸ばす紅花をさらりと交わす。
「母上……心とはいとも容易く壊れるものですな……それは喜劇とは思われませぬか?」
そう言葉を残し、緋美はその場を去った。背を見送る紅花。そして、緋美の顔は『罰』を背負うが如く、純粋無垢な陰は消え去り、すべてを許せぬ憎悪に歪んでいた。それは己のかすかに残る紅花への愛ある心さえも許せぬほどに……。
「あれは……」
根音の目が桃色に輝く。ひとり歩いている緋美を見つけ、相変わらずな姿を晒す。
「こら、根音……また主は……ほんに、ませガキ!」
「うるせえ、跳ねっ返り! 一度、あの方の爪の垢でも煎じて飲ませてもらえ! 少しはおなごらしくおしとやかになるだろうて……ほんに根子は欠片もない……」
「こら! 根音……言うてよいこと、悪いことがあります……」
清はがしっと根音の肩を両手で掴み、膝を折り目線を合わせ叱る。
「根音……そなたはそんな子ではないはずです……根音も根子もほんに優しい子。ならば見失ってはなりませぬ」
清の剣幕にしゅんとなる。
「許してたもれ」
素直に頭を垂れた。清は微笑み根音の頭を撫でる。その様子に気付く緋美。
「この前はほんに……」
根音はすぐさま先日のぶつかった件を謝ろうとした。しかし、緋美は冷たい視線を投げかけたまま、何も言わず立ち去った。立ち尽くす根音。
「なんか……違う目……」
清も気付く。
「あれは……何があった? この前の童女か……げに冷たい目……」
根子はひとり感ずる。
──あれは清さまが静さまに向ける目と同じ……冷たく憎悪と怒りに囚われた哀しき目──
そして、三人の背後には何かを失った紅花が追いかけはすれど愛しき娘を掴まえることのできない紅花が立ち尽くしていた。