136話
演目の最中、芝居小屋の裏に構えた帳場にて、市三朗は銭勘定をしている。役者、裏方はみな演劇に出払い、帳場には市三朗一人。
「げに紅桜のおかげ、はじまりは旅芝居で諸国を巡りて芸を売り、糊口を凌ぎ過ごした。しかし、紅花を拾い、頭角を現し、噂は広まり瞬く間にこの座の芝居小屋を構えるまでになった。まこと金の成る男……。それも儂を信用し過去まで話してくれた……」
市三朗は煙管をふかし、耳にざわめく見物衆の声を聞いていた。
「愉快、愉快……銭の響きよ」
もう一度、市三朗は煙管を咥える。
カタン──ズゥ……カタン、コトン、スッ……
カタン──ズゥ……カタン、コトン、スッ……
見物衆の喧騒の中、場に相応しくない音が市三朗の鼓膜に響いた。
「それは興味深い話をしとりますな。市三朗殿……もし、よろしければことの真相、お話頂けないか?」
「なっ、誰じゃ?」
高下駄三枚歯の足元だけが暖簾越しに現れる。暖簾を掻き分けるとそこには、役者と見紛う花魁姿の絢爛美麗な姿。
「誰じゃと聞いとる? ここは関係者以外立ち入り禁止ぞ」
慌てふためく市三朗。
「ほんにすみませんえ。しかしながらわたきの主が是非、座元さまと話がしたいと申してありんす……」
すっと花魁は横にずれると漆黒の着物に長い黒髪を靡かせた女が顔を出す。
「あい、すみませぬ。我は宿静と申します。先ほどの話聞かせて頂けぬか……紅花殿の過去話を……」
それは花死奇談に出てくる死仕舞師の如く、美しくそして哀愁漂う恐れられる者として市三朗には映った。
「なっ、それを知ってどうなさる? もしや、紅花を引き抜こうと?」
焦りが疑うに変わる。
「紅花はこの千種座の看板女方。引き抜きなどとんでもない!」
「何を申されるか……座元さま……我にその気はござらん。紅花殿の今などどうでもよい……欲っする物は、紅花殿の過去……ただその過去を語ればよいだけでございます……それ以外に興はござらん」
「そんなこと信じられるか! それを元に紅花をゆするか? 昔事を知り、町役人でも付き出すか?」
はっとする市三朗。激昂のあまり、よけいなことに口を滑らせたと思い、慌てて静を見た。静はにやりと笑っている。
「町役人とは物騒ですな……紅花殿の過去は、いかに興をそそる物でござる……」
静はすっと帳場に断りも入れず上がり込み、市三朗の表情を楽しむように顔を近づける。仄かによい花の薫りが広がる。長い黒髪が相まって冷たい瞳孔は市三朗の心を吸い寄せる。
「話してたもれ……座元さま……話せば今の千種座はそのまま。そして、もっとよい話もお付けしましょう。今より大入り間違いなしの詞章もお付けして……選ぶ余地はござらんよ、座元さま……花焔お出まし……」
床から煙が舞ったかと思うと焔が巻きあがり、焔の中より、深紅の目、深紅の逆立つような髪を振るわせ、まるで焔の衣を纏った花焔が現れる。手のひらには焔が揺らいで市三朗を見つめる。
「口を結ばれるのは構わんが、花焔の焔はよく燃えまする。この芝居小屋などひとたまりもないほどに……座元さまの返事いかんではこの花焔、激情を持って舞い焔をたちまちあたり一面に飛び散らせますが……いかがされるか?」
異様な花焔の姿に幽世の住人を感じ、拒否をすればその焔がすべて終幕することを悟る市三朗だった。
「……儂が知っているのはこの限り……嘘偽りござらん。そう、緋美の母親、夜月殿を殺めたのは……紅花じゃ……」