132話
舞台袖から、緋美が紅花を見つめる。呼吸を見出しながら舞台袖に歩いてくる。そこには人非らざるような神々しさがあった。
「母上さま、本日も素晴らしい演舞でございました。本日も目に焼き付きましたでございます」
紅花はふっと笑い立ち止まる。
「そうか……」
──何かが足りない。人はまことに素晴らしいと褒め称える。しかしながら完璧ではない……それが何かわからない。特に死仕舞師を演じてから……──
しかし、紅花の顔は冴えない。ゆっくりと指に椿油を取り、顔全体に馴染ませ白粉を浮かせ、手拭いでそっと拭き取った。使い込まれた手拭いは、紅を塗った唇や目元は丁寧に優しく拭き取る。使い込まれた布には、何度も舞台を重ねた紅や白の痕跡が染みついている。拭き取る度に紅く染まる布地に、先ほどまでの静寂の余韻が染み付いている。
──まるで、これこそ花死のよう……生者にして死者、死者にして生者、どちらにも非ざるもの──
手拭いを梅酢水に浸し、そっと肌に当てる。幽世から帰るように、現し世に戻る。衣の袖が揺れる度、白檀の薫りが漂う。狭間に生きる人生。それは今も昔も変わらないと思った。今は白檀の薫り、昔は……血の薫り……それが紅花の人生、そして後ろで見守る緋美への守り手としての使命。そう感じる紅花……今は父に戻る瞬間だった。
「父様、役からお戻りお疲れさまでございます……」
緋美は無邪気に背中越しに抱きついてきた。
「おう、緋美、さぁ、何処か旨いものでも食べに行こう……」
この時、はじめて紅花は父親、海願柱琥太郎に戻り笑みを返した。
芝居小屋から二人は出ていく。舞台の余韻に渦巻く人混みを尻目に二人は背を向ける。誰も見向きもしない世界に琥太郎は心地よさを感じる。
その時、何やら不思議な香りを身に纏う女たちとすれ違う。まるで異なる世界から現れた如く気品に溢れた姿。それは畏怖に近いと言うべきか。女は囁くように呟く。
「ほんに素晴らしい演舞、感嘆いたしました。されど……惜しむべくは心の迷いが感じられます。それは『罰』とでも言うでしょうか? 耐えることの限界を超えて生まれる自己への裁き。他者にも自分にも、痛みをもって与える結末が待っているとでも言えるでしょうか。左手の甲の痣、花紋様。しかしながらいつぞやかあなた様は、実の舞を見届けることになる。死仕舞師……真の名、花仕舞師の舞を……」
後ろを振り向く琥太郎。漆黒の着物を纏った女に従うように歩く、少し派手めの衣を羽織った女の郭言葉が響く。
「実に美しい舞いでござんした。しかし、それでは人は仕舞えないでありんすよ……」
すっと闇夜に溶けていく。賑やかな提灯の灯りを背に不思議な香り……それこそ真の幽世の薫りと思い、左手の甲を見つめる琥太郎だった。