130話
ひらひらと演目『花死奇談』と書かれた番付が揺れ、熱気冷めやらぬ中、名残の風に吹かれ、月影淡き、裏町の長屋。煤けた障子越しに、かすかな笑い声と湯の湯気が立ちのぼる。この町の娯楽のひとつとして威風堂々と佇む芝居小屋、千種座の話題でもちきりだ。そこで行われている、芝居話に花が咲いている。そこに集うは、職人衆と行商女、髪結いの娘に、口達者な下駄屋の婆様など、賑やかに寄り集う面々。
「して、見申したか、千種座の芝居」
酒を煽りつつ語り出したのは、鍛冶職の茂五郎。
「そりゃあ見たともよ、あの死仕舞師と来たら……目元に涙の影がさしての、まるで我らが嫁のつつまやしかった頃を思い出すようでのう」
頷くは、魚売りの武吉。まだ袖口に鱗の粉残せしまま、夢見心地に首を傾げる。
「あんた、女房に怒られるでよ」
口を挟むは、この店女将の染代。
「こりゃ、黙っとってくれ」
茂五郎のあわてふためく姿にどっと笑い声が広がる。
「いやはや、あれが女方の芝居とは……おらあ、てっきり本当のおなごが舞台に立っとると思うたよ、あの立ち振舞いほんにおらよりおなごぞよ」
隅で団子を頬張る娘が口を挟むや、皆の笑いがさらに広がる。
「実にしてもよ、あの死仕舞師役の紅花とやらの見事な芝居。今宵、花の咲く夜は、人の心も惑うというわ。今宵の夢もきっと、あの死仕舞師と語らう夢ぞえ」
年寄りの婆様が遠くを見つめてぽつりと呟けば、皆また黙して火鉢の火を見る。炭の赤き灯、ぱちりと跳ねる音──それすら芝居の余韻のように、胸の奥をそっと撫でてゆく。
チッ……
その話を側で聞いている男が一人舌打ちをし、酒を煽っている。
──確かに芝居は上手かった。あれはみな、熱が入るのも頷ける。しかし、詞章がいかん。あれじゃ、死仕舞師は単なる物の怪じゃ、ほんに哀しきかな。実に存在する仕舞師とは似ても似つかん。まこと、残念じゃ。ほんまの舞はそげな子ども騙しじゃない。仕舞われた身だからこそ、さらによけいにじゃ──
男は、黙って金を払い、そそくさと外に出て夜風に吹かれた。
「儂の目で見て書き記した『花死奇談──真綴』であの芝居を見たいのぉ、いやほんにあの荘厳な舞をみんなに見て貰いたい……」
そう呟くと男は月を見上げた。
「花仕舞師とは、ほんにおるんぞ……姉妹の哀しき物語として……」
男が手にするは『花死奇談──真綴、綴り人──花識』
その夜、長屋の者は誰も、まことの眠りにはつけなかった。
夢に見しは、皆ひとしく、花咲く庭先に立つ死仕舞師の面影であったという──