120話
「心を守る器だと……」
自虐的に嗤いを浮かべていた伝八の表情から笑みが消えた。畳み掛けるように清は強い想いを伝八にぶつける。
「これこそがまことの心。零闇殿の言葉……届け──花文!」
手を広げ零闇の声を届けようとする。
──静かに余生を送りたいと願うならば耳をふさぐことです──
伝八は耳を塞ぐように心を閉じた。
「もう、やめてくれ……このまま静かに儂は命を全うしたい。もう、今を否定されとうない」
清は口を歪ませる。伝八が心を閉ざそうとする。
──やはり、私ではまだ伝八殿の扉を開くことは……で、できないかも……──
「伝八、もうよいではないか……儂の誤りから、主を苦しめた。もう苦しまなくてよいではないか……」
清の背後から声がした。そこには二度と会いとうないと拒絶した兵之助が立っていた。
「何しに来た? 覚えておらぬのか! 二度と会いとうないと言うたことを……」
コホッ──コホッ──
怒気を強めためか咳が立て続けに出た。
「今、宗光殿が来ておるだろう……要件はそれじゃ……」
「やっぱり、お前か……あんな文をよこしたのは……あの筆跡……何年経っても変わらぬ……思い出すとまた腹が立つ。あの指図を描いたお前の顔がちらつく」
コホッ──コホッ──
「儂の顔は忘れずとも誇りは忘れてしまったか……伝八よ……」
悲観する兵之助。
「何を……言うか……」
「儂は信念を誤った。お前は信念を貫いた。そして、零闇殿の心の器を見事に造りあげた。羨ましいぞ」
「羨ましいじゃと……なんだ? 今さら泣き落としか? そう言えば儂が動くと思ったか……学舎なんぞ……泣き落としでまた金儲けでも企むか? 儂を使こうて富を築きあげるか?」
「伝八、すまぬ。お前に嘘の文を渡して……『風月同天』など今更ながらの言葉を綴ったことを……ほんに申し訳ない」
兵之助は頭を垂れた。
「黙れ……今更、お前のそんな姿……見とうないわ……コホッ……ゴホッ……帰れ──」
「伝八……これは儂の依頼ではない……これは幸吉という純粋に想いを繋げたいとした一人の男の願いじゃ……」
兵之助は幸吉が命をとして認めた幸吉の文を手渡した。
「儂は再び見誤った。名を隠して宗光殿に姑息な文を細工して認めたことを……正直に語れば良かったか……伝八よ……その文に何かを感じ取ってくれぬか?」
伝八は躊躇ったが……自然と手が兵之助の持つ文に伸びた。
──なぜ、俺はこの文に手を伸ばす……なぜだ……──
心とは裏腹に行動する様を清は見逃さなかった。心の隙というものだ。手のひらを広げ言葉を届けた。
「こんな形で届けること赦されよ……伝八殿。恨み言はのちほど聞きまする……零闇殿、幸吉殿、お雪さま……彼の想いを ──届け──花文……!」
伝八の隙間へ、それは針に糸を通すほどの隙間……閉じられた心をこじ開けた兵之助。その隙間に花文を送り込む。
伝八の心にさまざまな想いが流れ込む。
「これは……これが儂の匠としての心の器、そして儂の腕を信じてこの文の気持ちが痛いほど伝わってくる……儂はこの身体でも、この死ぬ運命の中で……この匠を……やりたがっとる……」
伝八は膝から崩れ落ちた。それは……己を偽らず、心のままに匠を振るいたいと想い……涙が溢れた。兵之助は伝八の肩を抱き、想いを伝えた。
「伝八よ……儂は清殿にお前の命がもうないことを聞いておる……それでも、お前にこの匠を任せたいと思うとる……契はほんに切れてはおらなんだ。ただ二人の『執』に霞んで見失っていただけだ……今、その涙は……ほんに晴れた証拠ぞ……」
兵之助も涙を流す。霞み縺れ切れかけた契りが二人の涙で強く紡がれ直された。