114話
「兵之助殿はおられますか?」
伝八に文を認め上げ、宗光を送り届けたあと、御座所に戻り時間を過ごしていた兵之助の元に声がかかる。
「その声は清殿か? どうぞ遠慮なさらず」
スウッッ──
障子が心穏やかに開く。兵之助は耳を澄ますようにその音を聞いていた。
「この屋敷はほんに恐れ入りますな……区切り区切りの戸が心地よく開きまする。まことに気鬱なく、胸の内晴れやかになりまする。ほんに心の屋敷でございますな」
兵之助は清の言葉に感嘆する。
「まさかこの屋敷の戸に想いを馳せてくれるとは……これは儂が契りを交わしたある男の匠の業でな。そやつはよう言いよった。「屋敷は、人を守る器だ。心がなきゃ、ただの木の箱だ」と……」
「左様でございますか……ほんに立派な匠の業でございますな」
清は言葉を受け入れ、感嘆のため息をついた。
「ところで旅の疲れは取れましたか? ほんにかたじけなかった。朱鷺をここまで送り届けて頂き言葉にできぬ。腹の中の稚児も礼を言いたいだろうに」
兵之助は頭を下げた。
「こちらこそ、ここまでよくして頂き……ところで先ほどの御方は? 何やら急ぎ足で出ていかれましたが……」
「あれは、弥三淵の村長、羽戸山宗稔の倅、宗光殿。清殿もご存知の通り、弥三淵に学舎建立のためこちらまで遣いとして足を運ばれ、そして学舎建立の要となる匠の元に向かった。この要、奴しかおらぬと思ってな」
「もしや、奴とはこの屋敷を建て契りを交わしたという匠でございますか?」
「その通りじゃ……じゃが過去、ある寺を建てる時に揉めてな……それが今も続いておる」
「今も……お互いの信念のずれがそうさせた……そう、礼尊寺の建立に際してな……」
まるで懐かしむように目を閉じる兵之助。
「礼尊寺? もしや零闇さまの礼尊寺でございますか?」
「零闇殿をご存知か? そう、零闇殿のところの礼尊寺じゃ……」
「そうですか……もし、よろしければ、何があったかお聞かせ願えればと存じます」
清は一度、真っ直ぐ兵之助の目を見据え、頭を下げた。
「ほんに不思議な人よ、清殿は……心を許せるほんに不思議な人ぞ」
遠くで朱鷺と根音、根子が戯れる声がする。兵之助はその声をまるで、後の世に生まれる孫の声と重ねていた。静かに笑う兵之助は口を開いた。
「これは女房にも朱鷺にも、幸吉にも話すこともなかったことだがな……これも不思議な縁なのか……なんなのかわからぬがな」
兵之助は礼尊寺建立の際の出来事を清に話聞かせた。