112話
白髪まじりの痩せこけた頬。威勢よく吠えていた頃の面影は今はない。
コホンッ
咳をひとつする。朝焼けの光が障子を通して射し込んでくる。
「もう終いかのぉ……」
コホンッ
またひとつ咳をする。幾つの屋敷や寺社を建立しただろうか。しかし、あれ以来、晴れて匠を全うできたであろうか。
喧嘩別れをして数十年。それだけが心残り。その心残りを打ち消したいがために一心不乱に匠に全うした。だが、心は光射すことない。口にした言葉を打ち消したいがために……。
──おまえの商才は恐れ入るが、心は信じられん──
だからこそ、己の心は信じた。はずだった──。己が正しいと思うために……。
スウッッ──ガタッ──
天井をぼんやり眺めていると玄関口から引戸が滑らかに開く音がする。しかし最後の引っ掛かった音が気になった。
──引戸が引っ掛かっておる。……滑らかに引戸が動くことこそ、余計なことを考えずにすむのに。滑るように開かなければ余計な力も使う。それではだめだ、人を守る器としては失格じゃ。儂の腕も落ちたか……──
「深井伝八殿はおられるか?」
突然声がする。
「こんな早朝に誰ぞ? こんな老い耄れに……匠の話も、もう無理じゃ……弟子立ちも一人立ちし、忙しゅうしとる。心満たされるものを建てれんし、適当な匠はしとうない……」
用件を聞かぬまま独り言を繰り返す。言うことを聞かない身体を無理やり起こし玄関に向かう。
「どちらさまぞ? 匠の件ならお断りじゃ、なんせ願い叶えるもんはもう無理な身体じゃて……身体がえらくてたまらん。話は聞かぬぞ……さっさと帰れ……」
そこには漆黒の着物を纏った女が立っていた。女はくすりと笑い、伝八の言葉に動じることもない。壁に寄りかかりながら辿りついた伝八の左手の甲には花紋様が咲いていた。
「朝早くに申し訳ございませぬ。私は静、宿静と申します。伝八殿でございますか?」
頭をゆっくり下げ礼を尽くす静。
「いかにも儂が伝八じゃが……」
「そうでございますか。京一の匠と誉高きお人とお伺いし、また悌』の心をお持ちかと思い馳せ参上した次第ですが……」
間を置く静。
『執』の心で満たされておりましたか……まことに残念でございました」
まるで、それを承知したように笑みを浮かべる静。それはすべてを見抜くような黒く縁取られ闇に吸い込まれるような瞳。ほんの嘘でも見抜かれそうな、そんな目をしている。
伝八は清の言葉の意味は理解出来なかったが、静と名乗る女がただ者ではないことは瞬時に理解した。